2012年 05月 15日
剣・軍旗をもつ甲冑姿
地蔵尊は普通一般には僧衣をまとったび比丘の姿をしていますが、勝軍地蔵は身に甲冑を帯び、右手に剣、左手に軍旗を持った勇敢な姿をしているのが特徴です。
これは悪行煩悩の軍に勝つ地蔵という思想から生まれたもので、その信仰は鎌倉時代後期から起こったわが国独特の地蔵信仰です。
しかし伝説的には清水寺や愛宕山の勝軍地蔵の如く平安時代初期頃からとされる説もあって、中でも清水寺の勝軍地蔵は『元亨釈書』げんこうしゃくしょ巻九(延鎮伝)にもみえ、その霊験談は世に名高い。
坂上田村麻呂は奥州征討に際し、清水寺の観音に戦勝を祈願して出発したが、戦いは賊軍の抵抗はげしく、矢もことごとく射つくしてしまって苦戦となった。この時、見知らぬ男が二人現れて敵の弓勢をものともせず、戦場の矢を集めて届けてくれたので官軍はたちまち態勢をもちなおし、ついに賊軍を討ち滅ぼすに至った。
後日、凱旋した田村麻呂は清水寺へお礼に参詣し、ふと本尊の両脇侍の地蔵尊と毘沙門天の像をみると、全身に矢傷や刀傷があり、足は泥にまみれているのに大いにおどろき、さてはかの戦場の二人の男とは、この両尊の化現であったのかと深く感嘆した。
それより「勝軍地蔵」「勝敵毘沙門天」といわれるに至ったといいます。
名も高き音羽の山の軍神(いくさがみ)
その勳(いさおし)に御代ぞ始まる
とは、その御詠歌です。
像は高さ1.63m甲冑の上に袈裟を着けているとのことですが、現在は本尊の右脇侍として奥深い堂内のお厨子に安置され秘仏となっています。外陣内奥の正面欄間にその姿を写した懸仏(かけぼとけ)を掲げています。

参考引用掲載 京のお地蔵さん 竹村俊則著
写真 ro-shin
地蔵尊は普通一般には僧衣をまとったび比丘の姿をしていますが、勝軍地蔵は身に甲冑を帯び、右手に剣、左手に軍旗を持った勇敢な姿をしているのが特徴です。これは悪行煩悩の軍に勝つ地蔵という思想から生まれたもので、その信仰は鎌倉時代後期から起こったわが国独特の地蔵信仰です。
しかし伝説的には清水寺や愛宕山の勝軍地蔵の如く平安時代初期頃からとされる説もあって、中でも清水寺の勝軍地蔵は『元亨釈書』げんこうしゃくしょ巻九(延鎮伝)にもみえ、その霊験談は世に名高い。
坂上田村麻呂は奥州征討に際し、清水寺の観音に戦勝を祈願して出発したが、戦いは賊軍の抵抗はげしく、矢もことごとく射つくしてしまって苦戦となった。この時、見知らぬ男が二人現れて敵の弓勢をものともせず、戦場の矢を集めて届けてくれたので官軍はたちまち態勢をもちなおし、ついに賊軍を討ち滅ぼすに至った。
後日、凱旋した田村麻呂は清水寺へお礼に参詣し、ふと本尊の両脇侍の地蔵尊と毘沙門天の像をみると、全身に矢傷や刀傷があり、足は泥にまみれているのに大いにおどろき、さてはかの戦場の二人の男とは、この両尊の化現であったのかと深く感嘆した。
それより「勝軍地蔵」「勝敵毘沙門天」といわれるに至ったといいます。
名も高き音羽の山の軍神(いくさがみ)
その勳(いさおし)に御代ぞ始まる
とは、その御詠歌です。
像は高さ1.63m甲冑の上に袈裟を着けているとのことですが、現在は本尊の右脇侍として奥深い堂内のお厨子に安置され秘仏となっています。外陣内奥の正面欄間にその姿を写した懸仏(かけぼとけ)を掲げています。

参考引用掲載 京のお地蔵さん 竹村俊則著
写真 ro-shin




夢見地蔵と言われるのは、『山州名跡志』巻三に次のように書かれています。



「雍州府志」巻二によれば、鎌倉時代の安貞二年(1228)鴨川が氾濫した時、一人の異僧があらわれ、この水を防がんとすれば、鴨川の東岸に夏禹王かのうおう(洪水を鎮めた中国古代の王)の廟と弁財天社を祀るが良いといって寺の中へ入って姿が見えなくなりました。
この地蔵尊は寄せ木造りの丈六の巨大な座像で玉眼入りですが、その眼に少し曇りがあってあたかも眼病にかかったように見えるので、いつしか眼病平癒祈願の信仰が生まれ、「雨止地蔵(あめやみじぞう)」が転じて「眼疾地蔵」となりました。


本堂横の庭には、「篁(たかむろ)冥土通いの井戸」があります。平安の昔に篁が冥府の閻庁の役人として現世と冥界の間を行き来するときにつかったといわれています。

清水寺山門左手側に通称「善光寺」と呼ばれる小堂があります。
しかしよく見ると錫杖も宝珠も持っていなくて、あるのは右手に扇子を持つだけで、しかも頭はまげを結んでいて、地蔵尊でないということは一見してわかります。