釈迦山 百済寺(ひゃくさいじ) |
日本書紀には669年に、佐平(百済の官位)余自信、佐平鬼室集斯等男女七百人を近江国蒲生郡に遷すという記録があります。近くには亡命百済人が建てたとされる石塔寺三層石塔やオンドル遺跡が多く発掘されています。渡来した中で中心的役割を果たしていたのが鬼室集斯だといわれています。 聖徳太子創建後、百済寺の護持には、鬼室集団が大きく関与していたか・・・
『天台大鑑』には次のように記されています。
本尊は十一面観世音菩薩立像、木造丈八尺五寸。推古天皇十四年(606)聖徳太子が草創して、放光輝く霊木をもって十一面観世音像を謹刻。百済国龍雲寺の梵刹を模して伽藍を造営、渡来僧・道欣をして住せしむ。故に寺号を百済寺(くだらじ)と称す。
百済寺は聖徳太子四十六か寺の一つとされ、その後平安時代に天台宗となり、寺の規模は拡大されて「天台別院」」と称されるほどに栄えました。百済寺(ひゃくさいじ)と呼ばれるようになったのもこの頃です。
鎌倉時代には東西南北を四つの谷に分ち、近江で唯一の五重塔をはじめ僧坊三百余りの巨大寺院を形成するに至りました。信長による百済寺焼き討ち後、秀吉の臣下堀秀政が仮本堂を再建。現在の本堂は、三代家光が寛永十四年(1637)から慶安三年(1650)にかけて再興されました。寄進者には棟梁の名匠・甲賀宗広をはじめ井伊直孝、春日局などが名を連ねています。
像高1.2mの聖徳太子孝養像(やさしい表情をしています)
(喜見院と庭園)
信長は安土城の構想をこの地で練ったらしく、寺所蔵の「石曳きの絵馬」が物語るように、信長は三百坊焼け跡の石垣や石仏を運び出して築城したようです。
滋賀県東近江市百済寺町323 ☎0749-46-1036
参考引用掲載 近江西国三十三所観音巡礼 聖徳太子の寺を歩く
写真 ro-shin