須磨の敦盛 一の谷町 |
さて一の谷の合戦で義経の奇襲によって総くずれになった平家の武士たちは船に乗って四国方面へと落ちのびていった。船に乗りおくれたらしい一人の若武者が、沖の船めざして須磨浦の波打ち際を馬にまたがり進んでいた。それは、清盛の弟経盛の子で、この時十六歳になる平敦盛であった。
彼の姿をみとめたのは源氏の荒武者・熊谷次郎直実である。
「敵に後ろを見せるとは卑怯なり、返せ、返せ」
その呼び声に引き返してきた敦盛を、砂浜で組みした直実は首を伐とうと敦盛の冑をぬがして驚いた。まだどこかに幼さの残ったその若武者の顔を見ていて、ふと同じくらいの年の自分の息子小次郎のことが、胸の中をよぎったのだ。そこで、直実は「御身一人くらいをお助けしたとて、この戦の大勢にさしたることもござるまい。お命お助け申そう。早く船に追いつき、逃れられよ」
と言いはじめた。しかし敦盛は、それを聞き入れようとはせず「私も武士のはしくれ、さっさと首をはねよ」
とひきさがらなかった。
そのうち背後の松林に源氏の武士たちが大勢近づいてくる。
「今は、これまで、それではごめん」としかたなく直実は敦盛の首をはねたのである。
戦いのあと、義経は今の須磨寺あたりに休んだという。
直実は、そこへ敦盛の首を持参して、首実検を行なった。須磨寺本堂のすぐ西に、この時の「義経腰掛けの松」の切りくいと、その前に敦盛首洗いの池という泉が残っている。
検分された敦盛の首は、境内西方に埋められた。そこに今、敦盛卿首塚とよぶ五輪の石塔が建っている。
文武をたしなんだ若い公達の敦盛は、笛の名手だった。その愛用の青葉の笛と伝えるものが須磨寺に蔵されている。
山陽電車須磨寺公園駅の西、国道二号線の北にある巨大な五輪塔は敦盛塚と称している。それは死後の敦盛の霊が無念の一の谷に帰ってきて、みずからここに建立したものだといったりする。
少年のうちに死んでいった敦盛のこの塚にお参りすると、子供の病気を治してくれるという信仰がおこり願いを叶えられた人々は、竹にいくつかの穴をあけて紙をまき、水引をかけて青葉の笛に似せたお礼を作って供えたという。
一説には、敦盛塚は、弘安九年に北条貞時が、平家一門の供養のため建てたともいい、また直実はのちに出家して敦盛の菩提を弔ったとも伝える。
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin