細川ガラシヤ 細川忠興の妻 |
信仰に生きた美しき戦い
勝竜寺城跡
毛利勢と戦う秀吉軍応援のため、信長から中国出陣を命じられた光秀は、出兵に先立ち愛宕神社に参った。
翌朝、五月二十八日。社頭で催した百韻連歌の発句で「時は今」と、天下に挑む決意をひそかに神前に披露した彼は、六月一日、一万三千の兵を率いて丹波・亀山城(亀山市)を出発するや、西への道とは逆に老ノ坂を越え桂川をわたり、二日の夜明け、本能寺に突入して宿泊中の主君、信長を討った。
天正十年(1582)に突発したこの”光秀謀反”の理由を、当時日本に滞在していた宣教師、ルイス・プロイスは
「明智は恐るべき人で、さらに進んで日本王国の主となるを得ざるか試みんと欲した」(イエズス会、日本年報)と記している。
この光秀の旗揚げは、細川忠興(ただおき)に嫁ぎ、丹後の宮津城で幸福に暮らしていた彼の三女、玉(たま)を悲境の底に突き落とした。
彼女が忠興に嫁入ったのは、これより四年前、天正六年八月のことである。父、明智光秀の居城、近江・坂本の城をあとにした玉は、かごに揺られながら比叡山を越え、山城・勝竜寺城の忠興に嫁いだ。ともに十六歳の若い夫婦だった。
この縁組みも配下の有力武将、明智と細川のつながりを深めさせよう・・・との信長の策略から出た、という。
しかし玉には幸せな結婚だった。父の謀反の起こるまでは。
忠興(与一郎)は結婚の前年、天正五年十月一日、父、細川藤孝や光秀、筒井順慶らと、松永弾正の一味がこもる片岡城を攻めたとき、十三歳の弟、頓五郎とともに一番乗り、信長から感状を得た勇敢な青年武将である。結婚後も丹波・丹後の攻略に父に従い新婚の城で蜜月を楽しむゆとりもない日々だったがそれも「容顔の美麗比喩なく」(日本西教史)といわれたこの美しい新妻に優しく玉も満ち足りていた。
結婚三年目には長男、忠隆が生まれ、翌年には続いて二男、興秋も生まれた。
長男誕生の天正八年、細川父子は丹後十二万石を与えられ勝竜寺城を出て宮津に移った。玉には何不足ない日々だった。その恵まれた時間が雷に打たれたよう一夜にして引き裂かれた。本能寺の変”によってである。””信長自害”の知らせは、翌三日に早くも丹後に届いた。急を告げる京からの飛脚は土足のまま広間に駆け上がり知らせの文を差し出す息せき切ったありさまだった。そして
「今度のことは婿の忠興などを取り立てるためのことだ。五十日百日のうちには近国を固め、後は忠興殿らにまかせる所存だ。だから・・・」
縁者でありながらただちに応じて立とうとはしなかった。逆に丹後の明智氏の支城二ヶ所を攻め落とし、さらに毛利との戦線から急ぎ引き返す秀吉に使いを送った。
問題は玉の処遇である。主君を死に追いやった”逆賊”の子をそのままにしておいては夫、忠興が疑われる。美しく才能豊かなこの二十歳の妻を、心底悲しんでいた忠興だが
「御身の父、光秀が主君の敵となった今、妻とすることはとてものことできない」
結果から見れば形の上だけだったにしろ離別を言い渡した。玉は侍女と警固の武士それぞれ一人に付き添われ、明智家の茶園があった丹波山中の三戸野の村に身を潜めた。
フランシス・ザビエルによってキリスト教が日本にもたらされたのは天文十八年(1549)玉の誕生の十四年ほど前のことである。信長の保護を得たこの異国の教えは急速に信者を集め、彼の本能寺での死の前後にはキリシタンの総数は十五万人とも二十万人とも言われるほどになった。それは当時の日本人全体のほぼ1%にあたる数字である。
水戸野で玉の身辺に仕えた侍女小侍從は、細川家と縁続きの京の清原家の出だった。彼女は生まれて間もなく父とともに洗礼を受けた生粋のキリシタン。父、光秀の死後、反逆者の子の汚名を背負い、夫や子と別れて生きねばならなかった玉には、時にふれ小侍従から聞くキリシタンの話は心を慰める唯一のものだった。
天正十二年三月の初め、玉は水戸野を出て大阪城の南、玉造の細川家の新邸に入った。信長なき跡の天下を握り、前年十一月、大阪城を築いた秀吉の取りなしによるものだった。
ふたたびわが手に帰った妻に、二十二歳のこの生真面目な夫は大喜びだった。危うく取り戻した宝物のように彼女を大切にした。あるいは大切にしすぎた。忠興は小侍女はじめ多数の侍女を玉に付けた。しかし一歩も邸の外へ出ることを禁じたのだった。フランス人の宣教師、クラッセが十七世紀に編集した『日本西教史』によれば忠興のこの措置は一つには女好きの評判高かった秀吉に妻を奪われないための苦肉の策だったという。
その代わりでもあるだろう。忠興は友人のキリシタン大名、ジュスト高山右近が屋敷を訪れ熱心に説くキリストの教えをそのまま妻に詳しく語って聞かせた。
彼女には新しい悩みがあった。大阪に帰って二年後に生まれた三男、忠利の病弱だった。それに何不自由なき暮らしとはいえ、ここでも監禁同然の日々である。相つぐ心の重荷・・・彼女のキリシタンへのあこがれはますます高まった。
その彼女を驚かしたのは、天正五年六月の秀吉による「禁教令」である。大阪にいる神父たちにも配流の噂が流れた。だが邸内に閉じ込められ監視される玉には、教会に行き洗礼を授かるすべはない。ついに非常の手段として、小侍従マリアが神父からの洗礼の方式を学び、玉は庭内でひそかにマリアが神父から洗礼の方式を学び、玉は邸内でひそかにマリアから洗礼を受けた。ガラシヤ(聖寵の意)夫人の誕生である。
秀吉の島津攻めに従軍、九州から帰った忠興はこの留守中の出来事に激怒。キリスト教を捨てるよう短刀を彼女のノドに当て迫ったが、ガラシヤの信仰を奪うことはできなかった。
その後のこと、神父に「天王の恩恵で死を恐れない男気を与えられました」と書き送ったガラシヤはやがて慶長五年(1600)関ヶ原の合戦の前夜、西軍石田三成の人質となることを拒み大阪の屋敷で自ら家臣の手にかかって死んだ。絹の布団に包まれその遺骸は、屋内に仕掛けられた火薬の激しい炎によって焼きつくされた。
東軍・家康勢に従っていた忠興は戦勝の夜、大阪に帰ってキリシタンによる壮麗な葬儀を営み、念願どおり天に帰った妻の三十八年の生涯を手厚く弔った。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者堀野廣
写真 ro-shin (忠興とガラシヤ・小川立夫画・勝竜寺城)