桂昌院 徳川綱吉の母 |
京娘が犬将軍の母に
江戸の刑場、小塚原で親子が斬られた。将軍の側近くに仕える秋田淡路守の家来、只越甚太夫とその子、五歳の竹之丞。
甚太夫は養生のすべない長患いの子にツバメが最上の妙薬と聞き、吹き矢で軒先のツバメを一吹きに射落とした。それが発覚、父子ともに哀れな死を呼んだ。
貞享四年(1678)六月。いよいよ厳しくなった『生類憐れみの令』違反にとわれた。死罪第一号だった。
それより40年余り前、正保三年(1646)正月八日の朝、江戸城で三代将軍家光に四男坊が生まれた。後に悪評高い『憐れみの令』を発し、幾千の甚太夫父子の命を奪う五代将軍綱吉の誕生である。傍らには二十歳の若い母がいた。
綱吉の生涯に大きな影響を与える”お玉”・・桂昌院である。その時、彼女はこの幼い命に自分のすべてを預けることをあらためて誓っていた。「二条家の侍北小路(本庄)太郎兵衛宗正といふものの女なり。はやくより御所にみやづかへまいらせお玉の局と申す」
京の二条関白家の家臣、本庄宗正の娘というが、これは表向き。実は西陣の織屋の娘・・・他の諸説もあるが、幕府代々の正妻、側室の伝記を述べた『玉輿記』他は、京都の八百屋の娘だったと告げる。
家光が将軍になって間もない寛永時代。京都・堀川通西麩屋町に小さな八百屋があった。主人仁左衛門に二人の娘がいた。公家侍の本庄家へも出入りの八百屋だったが、仁左衛門は急死。暮らしに困った妻女は本庄家へ女中奉公した。宗正にも三人の子がいたが主家からむかえた妻はすでになかったらしい。
家事の世話をする八百屋の未亡人に手をつけ男の子が生まれた。未亡人は二人の娘ともども、本庄家の後妻に入った。この連れ子の一人が綱吉を生むお玉だったと・・・。
今も、上京の今出川浄福寺かいわいに「北小路」の地名が残る。少女のお玉はこの辺りで育ったのだろう。母に連れられ仁和寺に参る彼女を、僧が「この子は高位にのぼる」・・・未来を占ったとの伝えもこの頃が舞台だ。ともあれ、後年の逸話からもうかがえるよう彼女は頭の回転が早い少女だった。
お玉はやがて春日局が采配を握る江戸城の大奥に入る。そのいきさつも、一本には、京の参議の娘で尼寺入りの寸前にその美しさを家光にみそめられ、彼の側室の一人にされた六条家の女「お万」との関わりからと説く。
将軍家光は正妻の尻に敷かれた父、秀忠より、祖父の家康にいっそう似ていた。女性についてもお上品な貴族の姫より野育ちのにおいがする「町娘」が好みだったようだ。あるいは、家光のすべてを見通しの春日局のお膳立てであったかもしれない。
家光は正室として京から下った関白鷹司家の姫とはついに不仲、別居の始末だった。が、これに反して四代将軍家綱を生んだお楽は下野(しもつけ栃木県)の田舎娘。他の側室たちも大同小異。ふくよかな京娘お玉に大奥で気後れは不要だった。お玉が生んだ綱吉は利発な子だった。その発明ぶりに次期将軍をめぐり兄弟争いの苦い記憶を持つ家光は乳母たちに命じた。
「徳松(綱吉)は知りたることも知らぬ体にふるまうべし。利発過ぎなば竹千代(長兄・家綱)ににくまれんぞ」(翁草)
賢すぎる子の将来をおもんばかった。書を読む時間を持たなかった自分を省み、また家光はお玉の方に命じた。
「そなたは心を入れてこの子に書物を学ばせよ」
彼女は涙を浮かべてうなずいた。
お玉はしっかりした女だ。わが子に何事よりも先、文を読む道を教えた。綱吉は病中でも書巻を話さぬ子になった、と。ついには熱中しすぎた。
一途なお玉の気性を示す話がある。もう綱吉が将軍位についてからだ。彼女は増上寺へ参った。お相手の大僧正は
「僧が学問に苦心するのは当然ですが、天下の政治に忙しい将軍様が学問に心を傾けて樹混をすり減らし病気になってはかえってよくないでしょう」
忠義ぶったお言葉に、お玉
「将軍様が病気にもならず長生きしたとて、天下の政治が行き届かねば何のかいが・・・。そのためには、学問(経学)を勧めこそ怠るようなどどうして言えましょう。」
ぴしり語った、という。(明良洪範)
だが彼女のひたむきさは、人生の頂上に登りつめたあと不吉なかげりを呼び起こす。元々お玉母子には「幸運」がついていた。
綱吉が六歳のときに父の家光は死に彼女は桂昌院を称するが、その、綱吉の二人の兄、四代将軍家綱と甲府宰相綱重が前後して世を去る。四男坊の綱吉が五代将軍に浮かび上がったわけだ。時は延宝八年(1680)桂昌院はもう五十代半ばである。
綱吉は母の食事の膳にまで心を配るという孝行息子。彼女には何の不足もなさそうだったが、それでも
「第一に神仏を御信心」という彼女は足しげく江戸の寺へ参った。綱吉を懐胎中から頼りにした僧亮賢の護国寺には、天和三年(1683)二月に牧野成貞らを供に参ったのをはじめ以後三十八回。また隆光の護持院十六回、増上寺十回、寛永寺、知足院、浅草寺・・・。異様にも見える打ち込みぶりだ。
参詣の彼女は綱吉の一子徳松が五歳で早世の後、世継ぎに恵まれないわが子に男児をと心に祈ったことだろう。跡継ぎを願う彼女のひたすらの思いがやがてあの「生類哀れみの令」を生む。
そのとき、從一位の極位を得、権力の頂上にまで舞い上がった桂昌院には、昔の京の八百屋の娘、お玉の心は埋もれ果て人よりも犬を大事とする世に泣く甚太夫ら世の人のうめきはその耳に達しなかった。
金蔵寺(西京区大原野石作町)
養老二年(718)元正天皇の勅願で創建された天台宗の古刹。桓武天皇が都の平安を祈念して法華経文を埋蔵された寺の一つとされ「西岩倉」の称号を持つ。現在の建物は桂昌院の再建。
ただ彼女は古里の京まで忘れ果てはしなかった。今宮社再興に社領百石を寄付、西山の名刹金蔵寺や洛西善峰寺にも尽力した。あるいは彼女の侍女たちの衣服を西陣へ特別にあつらえもした。
桂昌院は宝永二年(1705)七十九歳で世を去った。その死を「犬はなき民は悦ぶ・・・」と落首された綱吉もその四年後、母の後を追う。
芝・増上寺へ進む桂昌院の棺を警護する物々しい列のなかには、江戸城中で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に斬りつける浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)を抱きとめた梶川与惣兵衛も交じっていた。
参考引用掲載 京に燃えた女 著堀野廣
写真 ro-shin