建礼門院右京大夫 平資盛(すけもり)の恋人 |
落ちのびる終生の恋人
右京大夫(うきょうだゆう)が仕えた建礼門院徳子の像
(長楽寺蔵)
源平の戦いに愛する人を失った右京大夫・・・彼女の人生は昔も今も同じ戦乱のキズに泣く女の愛の悲しみを伝え哀れである。
「寿永元暦のころの世のさわぎは、夢とも、まぼろしとも、あはれとも、なにとも、すべてすべていふべききはにもなかりしかば、・・・」
右京大夫は亡き恋人への挽歌をつづった一章の初めにこう書き残している。
寿永元暦は、王朝の末、華やかに狂い咲いた平家一門が、清盛没後、たちまち東国の荒武者どもに追われ西の海に沈んだ平家滅亡の時代である。
北陸・倶利伽羅(くりから)峠(富山と石川の県境)の一戦で、源義仲の軍勢に破れた平家は、寿永二年(1183)七月わずか六歳の幼い安徳天皇を奉じ、西を指して都を逃れて行った。時代の嵐に吹きまくられる木の葉のように慌ただしい平家の都落ち・・・。その一群の中に右京大夫の終生の恋人、平資盛もいた。
資盛は平家の本流、平重盛(清盛の長男)の二男である。一代の美男子と女房連の評判だった兄、維盛(これもり)とは別の、女の目にはなまめかしい若公達(きんだち・貴族の子息たち)だった。
平家の御曹司として二十代半ばで蔵人頭(くろうどのとう)、今なら官房長官といった地位に上った資盛は、都を落ちる最後のとき、右京大夫に言い残した。「このように騒がしい世になり、自分の死はもはや疑いない。ただ、”露ばかりの哀れ”との気持ちはわが死後にかけてくれ」討ち死にを覚悟した彼は「いずこの浜で朽ち果てようとも、もはや便りをする事もあるまい」と去った。
やがて平家から源氏へ、主の入れ変わった京からは”平家追討”の東国の武者たちが無数に西へ駆け下る。翌年には平家の嫡流、維盛が気弱くも熊野で入水自殺。恋人の安否を気遣う彼女のもとにその年、ただ一度、資盛から「同じ世となほ思ふこそ悲しけれ・・」戦場にある身のはかなさを語る歌が届いた。
平家の滅亡は急だった。一ノ谷、屋島、壇ノ浦。都を落ちて二年、寿永四年の三月二十四日、二位尼(にいのあま・清盛の妻)に抱かれた安徳天皇はじめ平家は壇ノ浦の海底に消えた。資盛もともに。平家物語が語る最期はこうだ。
小松新三位の中将資盛・同じき少将有盛・従弟の左馬頭行盛(さまのかみゆきもり)も、手に手を取り組み、これも鎧の上に碇(いかり)を負うて、一所に海にぞ入り給ふ。
恥じらう初めての契り
祇園 長楽寺
「そのほどのことは、ましてなにとかいはむ」心中の悲しみを訴えるすべさえ見失った彼女。その手元に残されたものは、資盛からの手紙だけだった。その数々の便りを取り出して裏面に地蔵尊を描き、彼女は祇園・長楽寺の阿証上人にひそかに供養を頼んだ。だがその手紙の筆跡の跡を見るにつけ、右京大夫には資盛の生前の姿が涙のうちに浮かび上がる。
二人の出会いは彼女の宮仕えだった。右京大夫の父は名筆で知られた藤原行成の血をひく源次学者、藤原伊行(これゆき)母は琴の名手と言われた夕霧である。
両親の才を受けた彼女は承安三年(1173)十七歳のころ建礼門院の女房として出仕した。
建礼門院はいうまでもなく清盛の娘、高倉天皇の中宮徳子。壇ノ浦に沈む悲話はまだ十年余の後・・・右京大夫が出仕した当時は平家のもっとも得意なときだった。「一門の公卿十六人、殿上人三十余人。諸国の受領・衛府、諸司郡合六十余人なり」といわれたころである。
娘ざかりの彼女はひたすら宮中の輝くばかりのたたずまい、宮廷人のあでやかさに酔っていた。そんな宮仕えの日々で彼女の心を奪った初めての男、それが資盛である。葵祭の警固に立つ資盛の姿は、恋した彼女の目に絵物語の貴公子かと思えた。
わずかだが年下の資盛も、この才たけた後宮のスターに言い寄った。二十歳にもならぬ彼女は、この恋を前世からの宿命・・・と思い込んだ。里に下った日にも思いは募るばかり。思慕の心を歌っている。
夕日うつる梢の色のしぐるるに
心もやがてかきくらすかな
夕日射す 梢も消えぬ 空くらく 時雨れ降り
我がこころ 闇おりぬ(辻 邦生氏訳)
資盛と初めて愛を交わした翌朝、右京大夫はただもう人に会うのが恥ずかしかった。同僚の女房たち、まして他の男たちに知られたら・・・彼女はいたたまれないような恥じらいに包まれた。
愛の思い出抱きしめて
だがそれもひととき、六年ほど続けた宮仕えをやめ、西山に住む兄の寺に引きこもった右京大夫には、時折訪れる資盛がすべてだった。
そんなある冬、荒れた庭をながめ「きょうあの人がきたら・・・」とぼんやり夢見ていた彼女の前に、雪を踏んでほんとうに彼が姿を見せた。紫の指貫(さしぬき・平絹または綾で織っただぶっとした袴)を着た資盛・・・その姿は彼女の眼底に永遠に焼き付いた。
年月のつもりはててもそのをりの
雪のあしたはなほぞ恋しき
源平の戦いが本格的になり、人生の最後の時間が近づいたのを知った時、かって美しさだけが取り得だった貴公子、資盛は優れた武人に変わって行った。戦場に立つ彼は右京大夫に「後生を必ず・・・・・」と死後の供養を頼むのだった。男の変身は女をもかえた。資を決意した資盛を見たとき、右京大夫の彼への思いも永遠のものになった。
資盛の死後、里でわび暮らしていた右京大夫は、中年になってやむなく後鳥羽天皇のもとに再出仕する。だが七十歳を過ぎて、藤原定家から勅選集に記す彼女の名前について「いつの名を・・・」と聞かれたとき、彼女はためらわず「建礼門院右京大夫をこそ」と答えた。後鳥羽院出仕の名ではなく・・・。
資盛の死後すでに半世紀が経ている。だが右京大夫は彼との愛の思い出をしっかりと抱きしめて生きたのだった。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野 廣
写真 ro-shin