菅原孝標の女(むすめ) |
夢見がちな若き日々
石山寺縁起絵巻 石山寺参詣の菅原孝標の女一行が逢坂山を越えるところを描いたもの(重文・石山寺蔵)
当時の人たちは、永承七年(1052)から末法の世に入ると信じた。末法の世というのは、釈迦が現世を去って二千年「人心悪化し、天災地変が起こって悪のみがはびこる」(東大教授・土田直鎮氏)といわれた”世も末”の時代である。
栄華の絶頂を築いた藤原道真の没後二十五年。関東、東北では相次ぐ反乱があり、京都でも僧兵の乱暴、強盗や放火事件が続発し、世間は次第に騒然としてきた。”孝標の女”の日記すなわち彼女の回想録は、この繁栄から滅亡への現在とも相似た不安な時代を生きた一人の女性の夢と現実・・・”女の一生”の真実を哀れに思っている。才気が女の顔をしたような清少納言、どこか偏執的な”道綱の母”、恋こそ命の和泉式部など一昔以前の先輩に比べ”孝標の女”は内にこもりがちな、それだけ夢見ることの好きな女性だった。
彼女が生まれたのは寛弘五年(1008)源氏物語が書かれたころである。父の任地、上総(現・千葉県)にいた十歳ばかりの頃、等身大の薬師仏をつくり「あるかぎりの物語 見せたまへ」と祈る文学少女だった彼女は、やがて二つの死で初めて人生の深い悲しみに触れる。
京に帰った翌年、彼女が十四歳の春。草深い上総で母に代わり育ててくれた乳母(めのと)が流行の病で死ぬ。そして三年後の五月には姉の死に遭う。
この姉も彼女に似ていた。夏の夜更け、迷い込んできた愛らしいネコを、貴人の娘の生まれかわりといつくしみ、また明るく照り輝く十三夜の月を見て「このまま行く方も知れず飛び去ったなら・・・」と妹に話しかけたりした。どこかはかない女性だった。
お産のためその姉が亡くなった夜、彼女は残された二人の幼子に添い寝する。荒れた壁のすき間からもれてくる月光は、母を失った幼児の寝顔を悲しいまでに照らし出す。
月光は二人の子供の魂も空に吸い取ろうとするようだった。不安な思いにかられた彼女は、思わず袖で青白い光を遮り、姉の形見の遺児たちを抱きしめるのだった。
二つの死は「后の位も何にかはせむ」と日夜、ただ物語を読むことだけを念頭にしてきた少女の心を打ち砕いたが、それもなお時が過ぎれば、夢見がちな心はふたたび頭をもたげる。
「光源氏のような方を年に一度ほども通わせ愛されたなら・・・」と二十歳の彼女はまだ自分の明日を思う。
だが、そんな夢想的な彼女が現実の厳しさを知る日は近かった。父との別れがその第一歩だった。
一家を背負って宮仕え
父、孝標は菅原道真の五代目の子孫。家は代々学者の筋だったが彼だけは学才乏しく、一生、地方官で終った。人を押しのけてでもという出世欲に乏しく、そんな人柄だけに娘をいとおしむことは深かった。
上総から帰って十二年、彼女がもう二十五歳にもなった長元五年(1032)孝標は常陸(ひたち・現茨城県)の長官代理になる。六十歳の老境に入った父は旅立ちの前、娘を呼んで
「自分の世渡りが下手なばかりに、こんな遠国に行くことになった。近くならお前も連れ、思いのままの楽しみをさせてあげたものを・・・。いなかでもし万一のことがあっては」と別離を嘆いた。
今度も父とは別居し、彼女とともに京に残った母親は、ある僧にことづけ奈良の長谷寺に鏡を奉納した。その僧が帰って話すには、寺に泊まった夜、奉納の鏡の表に泣き伏す女人の姿が浮かぶ夢を見た、と。
(長谷寺)
三十を越えてした宮仕えも、清少納言の賞賛の言葉とは打って変わり、彼女には気詰まりだけが多かった。娘の里帰りの日をひたすら待つ両親、生まれた時から彼女が添い寝してきた亡き姉の子たちのこと。そんなことばかりが思い起こされる宮仕えの日々である。
そんな中でただひとつ、彼女が心ときめかし、娘のころの夢がかなうか・・・とも思った貴公子、源資道(すけみち)との仲も、水の流れのようにはかなく終る。
あの世での幸せ信じ
三十三歳の晩婚で六歳年上の橘俊道と結ばれた”孝標の女”は「物語のことも、うち絶え忘れ」て、いまはただ夫の出世、二人の間に生まれた子の成長だけを願う。
彼女が五十歳の秋、夫は信濃守に選ばれる。しかし老いを迎えた彼女が杖とも頼んだ夫は、翌年、京に帰って後、十日ほどの患いで死んだ。奉納の鏡に写った夢とはこのことだったのだ・・・・。
夫の死後一家は散り散りになった。彼女は一人住み慣れた家に暮らし、一夜、たずねてきた甥に
月もいでで やみに暮れたる をばすてに
なにとてこよひ たづねきつらむ
と、姨捨(おばすて)さながらの孤独の身を訴える境遇ともなった。そんな彼女にただ一つの救いは、夫がまだ丈夫だった三年ほど前、初冬の夜に彼女が見た夢。金色に輝く阿弥陀仏が現れ「後に迎へに来む」と告げたことだった。
それが彼女には極楽への導きと思われ、この世でかなえられることを信じた。
”孝標の女”の日記には、末法の世の激動を映した事件は記されてない。しかし少女のころの思いが現実によって無惨に砕かれ、人生がついに夢を裏切るもの・・・と見なした彼女の姿こそ、破滅に向かう一つの時代の不安を如実に繁栄している。
彼女にはまだ阿弥陀仏という救いがあった。だが、その”阿弥陀仏”も一向に顕現されない沈没寸前の列島で、老いて行く現代の人は何を救いとしたらよいのだろうか。
追記 末法の世に入ったと信じられた永承七年、”孝標の女”は四十五歳だった。この年長谷寺が焼け、世人は「此事有る恐るべし」とおののいた。このころ彼女もしきりに諸方の寺に参っている。この末法の世からの救いとして、次の鎌倉期になると法然・親鸞らが浄土教信仰を説き、日蓮は”法華の正法”を唱える。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野 廣
写真 ro-shin