梶女 祇園社水茶屋の娘 |
歌人茶屋の看板娘
彼女はさらりとした女、と人に思われた。初秋の風のようにさわやかな気分を会う人に与えた。彼女は参拝客に茶を売る祇園社門前の簡素な水茶屋の娘だった。両親を助け忙しく立ち働く梶(かぢ)は、憂いも悲しみも心に隠して客をもてなした。
家業の水茶屋は「祇園石の下鳥居下之方」にあった。祇園社今の八坂神社には、昔石段下と東大谷参道の中ほどに東山通りに面して”下の鳥居”があった。神社の話である。梶女のよしず張りの水茶屋はその鳥居の南側辺りにでもあっただろう。梶女はその店のいわば看板娘だった。
というのも、店は通称”歌人茶屋”と呼ばれ世間に知られていた。梶の歌の才能のためだった。江戸時代に入ってもう百年。世はすっかり太平だった。旅がやっと庶民にも楽しめるようになったそのころ、彼女の歌才は旅人の口伝えに「東のはて西の海のほとりまで」広まっていった。そんな彼女の評判ぶりを示し、その性格を語るのが尾張藩の武士、朝日重章(文佐衛門)の日記である。
元禄十五年(1702)の春。京の桜は咲き乱れ梶もまた人生の春の最中、二十歳のころだった。祇園の花見見物にやってきた彼、重章はそのついでにうわさの高い歌人茶屋に立ち寄った。国で待つ同僚の希望もあり、彼女からじかに歌のあれこれを聞いて、土産話にしようとの腹づもりだった。
彼女はこの侍にも淡々と応対した。これまでに詠んだ歌のいくつかを披露したが、別に自慢顔をするでなく、かといって恥ずかしげな振る舞いでもなかった。さりげない彼女の態度に重章は好感を抱いた。生まれつきの歌好きのようだ。彼は感嘆して書き残している。
士農工商の身分がはっきりしていたその時分、水茶屋の娘は家柄や財力など、身辺を飾るものは何物も持たない無力な存在だった。武士階級からすれば「いやしき女」だった。だが”歌”という支えを持つ梶女は、貴族や侍など世俗の権威に心を屈しはしなかった。落ち着いたその振る舞いは、一面、彼女の誇り高い心中の表れでもあった。
「涙の氷」胸に恋する乙女
そのころ、京の人口はほぼ四十万人前後。祇園南門から清水の門前にかけては、しだいに茶屋街の様子を見せていた。親孝行だった梶は四季たえることのない客の対応に余念がなかった。そんな店の仕事の合間、早くから彼女が好んだのは草子類や歌物語をひもとくことだった。水茶屋の床几(しょうぎ)に腰を下ろす客のうち、心得のありそうな人物には古歌の意味を尋ねた。独学で身に付けた梶の歌だった。
「幼きより歌を詠むことを好みて、しかも凡ならず、頻りに秀吟あり」(『近世三十六家略伝』)といわれる彼女の名が、一躍京中に知られたのは十四歳の時の
こひこひて また一とせも くれにけり
なみだの氷 あすやとけなん
”歳暮恋”との題を与えられて詠んだこの一首であった。
早熟の才能を示したこの作は、洛中洛外の人たちに大いに受けたという。明日に期待する乙女の恋心を歌いあげた一首の巧拙はともかく、この”処女作”には梶女の生涯が予告されている・・・。世評も高く言い寄る男も多かった彼女だったが、ついに一生、満たされる愛で溶かされることがなかった”涙の氷”を胸中に抱え生きた女だった。
秀歌は田舎人の京土産に
歌人茶屋の評判が高まるにつれ、都から地方からさまざまの客が訪れた。
わずか三日間だったが内大臣にも就任した大御所、中院(なかのいん)通重(みちしげ)もその一人だった。通りすがりには茶店に入って梶の歌に筆を入れてくれた。その一方、京見物に上洛した歌好きの田舎人たちは、彼女の作を手帳に写して京土産にした。
そんななかには「君故に まよひ来にけり・・・」と、恋の歌を梶に手渡す情熱的な奥州人。あるいは「潮が満ちたりひいたりするように、あなたを慕うわたしの涙はしずまることがありません」歌にして言い寄る都の好き者たち。顔形も悪くなかった彼女を口説く男たちは相次いだ。だが梶は軽薄な男たちを「満ちたりひいたりする涙などうわべだけの涙でしょう」彼女の気丈夫さでピシャリとはねつけた。
しかし彼女に深く契った男性がいなかったわけではない。その歌集『梶の葉』には
つらくのみ すぎこしかたを しのべとや
うきひとりねに たてる俤(おもかげ)
「昔を思い出づる事侍りて」と前置きした歌がある。昼間、客の対応に疲れ果てたあと、一人寝の夜の床で梶は去って行った恋人を夢に見、寂しさに氷のような涙を流し枕をぬらす。
ある年の七夕のこと。彼女は”梶の葉”に自作の一首を書いて織女星(おりひめぼし)に手向けた。
世の人の あだし心に うつさばや
一夜の星の たえぬちぎりを
梶は一夜の契りを永遠の契りと信じる女だった。水茶屋という浮かれがちな世界に生きながらも蝶夢の編んだ『類題発句集』に
啼く虫の 草ある方を たづねけり かぢ
の句がある。草むらで啼く虫は元禄の世に祇園の一隅でひたすら生きた梶自身であった。日々の生活のため雑草の間に身をかがめ、懸命に働かねばならなかった彼女が、恋や世間に傷つきながらその人生の折々に奏でた澄んだ音色・・・それが彼女の歌である。生涯独身だったと言われる彼女の水茶屋は、養女、百合に引き継がれた。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野 廣
写真 ro-shin