見性院(けんしょういん)山内一豊の妻 |
「世の中、金のないほど悔しいことはない」家に帰った一豊は肩を落としてこぼした。というのもこの日、安土の城下にある商人が「東国一」と称する名馬を引いてきた。浪人の身からやっと織田家の侍の末端に連なった山内一豊、こんな馬に乗った勇ましい姿を殿様に見せられたら・・・と願ったが、もちろん家に蓄えのあるはずがない。値段を聞き涙をのんで引き下がったのだ。
ため息をついた夫の独り言を耳にしたのが、貧乏所帯にもめげず初々しい妻。つと立って夫の側。
「馬はおいくらでございます」
「黄金十両、といっている。いや夢のような大金・・・」
「それほどにお思いならどうぞお買い下さい」鏡箱の底から、山吹色の黄金を十枚取り出した。一豊大いに驚き
「苦しい暮らしの中、こんな大金があるのを隠していたとは。なんと心の強い女だわい」
喜ぶやらうらむやら。
彼女は
「嫁ぐ日、夫の一大事に使えと父に鏡箱の下に入れていただいた金。貧乏で苦しいなどは世の常のことどうにも我慢します。でも聞けば近々、都で織田全軍の馬揃(うまぞろえ)観兵式があるとか。新参のあなたはこんな時でもなければ、みんなに知られることはありますまい。名馬に乗られ殿様に見参していただきたいものと、取っておきの黄金を」
妻のおかげで名馬を手に入れた一豊、都は上京の内裏の東で催された天下の馬揃で信長から「織田家の名誉も救った」と大いに誉められ、これが彼の世に出るきっかけとなった。
万石以上の大名の伝記等を記した新井白石の『藩翰譜』(はんかんぷ)その他に載る著名な話だ。ともかくこの夫婦、貧しい生活の中で力を合わせ、土佐ニ十万石の大名になったことに間違いはない。
恵まれない境遇同士
彼は天文十四年(1545)尾張の生まれ。同じ尾張の秀吉より九歳年下である。父、盛豊は信長のライバル、岩倉城主、織田信賢の家老だったが信長との決戦に破れ、その責任を取って自害した。一豊十五歳の時のことだ。
父をなくした少年、一豊は二度三度主君をかえ、ついに秀吉にめぐりあう。若宮氏の娘が嫁入ってきたのもこのころだろう。父という支柱を欠いて乱世に船出しなければならなかった二人は、そのためにかえって一層心を一つにした。それが馬を買う話の背景である。
一豊は猪突猛進のイノシシ武者、妻の才覚で出世した典型と思われがちだが、決してそんな女々しい男ではない。戦国時代男が勇敢だったのは当然。一豊も例外ではない。だが、太りぎみの彼は思慮に富む武者だった。すでに二百余人の部下を連れ、秀吉の中国攻めに従った三十歳代の一豊が戦場の寒夜、空きっ腹を満たし暖まるため、焼きたての大根を勧めてくれた部下に、
「息の匂ひ悪敷候に付、秀吉公御身近へ難出」
感謝しながらも断ったとの『一豊公御武功附御伝記』の一節など細かい心配りを忘れない一豊の性格を示す一例だ。
内助の功で夫が大出世
一豊の妻は書道も裁縫も達者だった。長浜城主夫人のころ彼女が唐織りの布切れを集めて縫い合わせ仕上げた小袖は、秀吉の目に止まるほどの評判。「山内殿は果報者」また一段と夫婦の名は上がった。
そして最後に彼女の名声を決定づけたのが関ヶ原の戦い。大坂の屋敷に残り死を覚悟していた彼女は、西軍からの廻状を上杉攻めの家康に従って関東にいた夫に急報、大坂の実情を知らせた。関ヶ原の合戦後、一豊は土佐ニ十万石を家康から与えられたが、その際に彼女の功は大きかった。
そんな彼女の人生も幸運ばかりだったのではない。母として彼女は悲しかった。夫婦の間のたった一人の子、与禰姫は天正十三年十一月、湖国を襲った大地震のため六つのかわいい盛りに命を落とした。
傷心の母は城外に捨てられていた幼児を拾い、娘の代わりにと育て成長の後、京都・花園の妙心寺、南化国師の弟子としてともども亡き子の菩提を弔った。
夫、一豊は慶長十年(1605)61歳で死んだ。土佐ニ十万石は甥の忠義が継いだ。夫の喪に服した彼女は翌年三月七日土佐を発ち、船に揺られ伏見の邸に着いた。
引き止められるのを振り切って、京に近く育った彼女には、老いを迎えた今、南国の明るすぎる太陽と荒々しい気風が耐えがたかったのかもしれない。
六月、京都桑原町の屋敷に移った彼女は、古今集や徒然草に親しむ静かな日々を送り元和三年(1617)12月、12年遅れて夫のあとを追った。61歳。法号見性院。
彼女が育てた湘南和尚が中興した妙心寺・大通院の墓は一豊夫妻の”比翼塚”である。来世も夫婦の心は一つとの彼女の願いを示すように。
参考引用掲載 京に燃えた女
写真 ro-shin