空也堂(くうやどう)市の聖の民衆救済 |
創建の地は三条櫛笥小路(くしげこうじ)といいますから現在の西北方、今新在家西町付近です。応仁の乱で焼失したあと寛永年間に現在地に遷ったといいます。 鹿角杖(わさづえ)を手に皮の衣をまとい念仏を唱えて全国を行脚した空也上人は、仏教の教えを庶民に弘通(ぐづう)した早い時代の宗教者として知られますが、のちにこの系統の宗教者たちは『時宗』(じしゅう)と呼ばれ、多くの念仏聖が庶民たちに交じって救済の事業に携わるようになりました。
なかでも京都の空也堂に根拠を置いた一派は、空也僧などとも呼ばれ、有髪で鹿角杖にぶら下げた瓢箪を撥(ばち)でたたきながら市中を巡ったところから、中世後期には「鉢たたき」の名でも呼ばれました。
彼らは同時に竹を細かく割って製した「茶筅」を売り歩いて生活をしていました。近世初頭の庶民風俗を描いた「洛中洛外屏風」などには、竹竿に多くの茶筅を挿して、瓢箪を手に二人一組で街を行く姿が描かれています。なお現在では茶筅はお茶を立てる道具として知られています。古くは物を洗う台所用品でもあり庶民の生活必需品でもあったのです。
彼らは本来寒中修行として都の外にあった七ヶ所の三昧地(墓所)を巡って死者供養をしていたのです。
江戸時代の空也堂は諸国に散在した茶筅とか鉢たたきと呼ばれた空也僧の末流を統括するとともに、民間で行なわれた念仏行事である「六斎念仏講中」(ろくさいねんぶつこうちゅう)の一流に免許を与えるなど、本山的活動を行っており仁孝天皇や孝明天皇の中陰仏事には、焼香念仏を奉納しています。なお現在でも十一月十三日の空也忌には岐阜・名古屋などから集まった空也僧により勇躍念仏(ゆやくねんぶつ)が踊られ、国の無形民俗文化財となっています。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行
写真 ro-shin