本法寺(ほんぽうじ)日蓮宗本山 |
日親上人は時の将軍足利義教に「立正治国論」を献じ平和の招来を直言しましたが、これが将軍の忌諱に触れ獄舎に投ぜられた上寺も焼却されました。さらに将軍義教が上人に加えた刑罰は次第に苛酷となり、ある時は焼鍋を頭にかぶせる等の残虐眼を覆う迫害もありました。
世に「冠鐺(なべかぶり)日親上人」と称するのはこの法難をいいます。
しかし上人の大慈大悲の法華弘通の大不動心は、遂に後花園天皇の叡感に適い、康正元年(1455)四条高倉辺に官地を賜り本堂の再建が実現されました。 その後長禄四年((1460))三条万里小路に移建することとなり、さらにまた天文年間に一条戻橋辺(現在の晴明神社)に移りましたが天正十五年(1587)当時の都市区画整理により現在地に移り第10世日通上人は寺領千石の寄進を受け・光悦の父・光二は私財を投じて再建されました。
天明八年(1788)の大火で豪華を誇った本法寺の伽藍も炎上の災厄に逢い僅かに経蔵と宝庫とを残すのみとなりました。その後、檀信徒たちの力で堂塔が再建されました。
本法寺と本阿弥光悦
本阿弥光悦は、日本文化史の上に大きな業績をのこした偉大な芸術家として知られ海外にもその存在を高く評価されています。
光悦は寛永十四年八十歳で没し、その生涯を家業の外広範囲に亘る各種の技芸に携り、そのいずれにも独創の才を恣にふるいました。
書は寛永の三筆と称され、陶器や漆器には稀代の名品を作り、また絵画にも後年琳派の源流をなす金銀泥画の妙技を示しています。
参考引用掲載 本法寺HPほか
写真 ro-shin