石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう) |
承平五年(935)から天慶四年(941)にかけて起こった平将門(たいらのまさかど)・藤原純友(ふじわらすみとも)の乱の折には、朝廷よりご請願があり八幡大神の御神威をもって速やかに平定されて以来、国家鎮護の宮として皇室の御崇敬は益々厚いものとなり、天皇の行幸(ぎょうこう)や上皇の御幸(ごこう)は円融天皇の行幸以来、実に240余度にも及びます。
京阪本線「八幡市」の駅前にエジソンの銅像があります。エジソンは発光体であるフィラメントに八幡の竹(マダケ)を使用したことから、1986年にエジソン生誕地の米国マイラン村と友好都市協定を結びました。
八幡宮にもエジソン碑が建っています。トーマス・アルバ・エジソンの電灯発明から50周年を記念して1934年に建立されました。(現碑は1984年再建)
文久三年(1863)4月11日孝明天皇は攘夷祈願のため石清水八幡宮に行幸しました。尊攘派公卿は社前で攘夷の節刀(せっとう・天皇が将軍に与える刀で、天皇の権限を代行する意味を持つ)を将軍に授け将軍が攘夷を決行せざるを得ない状況に追い込もうと計画していました。また、3月20日に、過激派公卿の中山忠光が京を出奔して長州に下った事件があり、長州や過激派公卿と謀って天皇の鳳輦(ほうれん・行幸に際しての天皇の乗物)を奪い、将軍を殺そうとしているとの噂が流れ、結局、家茂は行幸に共奉しないで後見職の慶喜が代わることになりました。
行幸の行列は立派でこれを見物しようと近畿各地から人々が集まりましたが、二階や格子内からの拝観も禁止するなど物々しいものでした。神前では慶喜も急病で退去してしまい攘夷の節刀の授与もなかったので、幕府側の立場を悪くし、尊王討幕論がますます高まって行きました。
参考引用掲載 石清水八幡宮パンフレット
新選組と幕末の京都
写真 ro-shin