日野富子(足利義政の妻)応仁の乱を起こした女 |
むなしく終った女の戦い
ながらふる世はうの花のさかり哉 従一位 富子
生きる支えだったわが子、義尚が六角征伐で出陣中の近江で没したその年、富子は彼の菩提を弔う弥陀名号の連歌の席で
「世はうの花の」一句をよんで逆縁の子に手向けた。
世間では「当時政道、御台御沙汰ナリ」
政治の実際をほしいままにあやつる猛妻_とまで陰口されていた富子である。しかし、五十才を迎えたよるべき子に先立たれた今、世の中は憂きことばかりと彼女には思われた。
父、義政を継いだ室町幕府の九代将軍足利義尚が六角高頼(たかより)を討つため都を発ったのは長享元年(1487)九月のことである。
叡山の領地を犯した六角氏を攻め滅ぼし、合わせて将軍の威令を天下に示そう、というのが彼の狙いだった。
戦いは六角勢が拠る観音寺山の落城で将軍方有利に展開したが、甲賀の山奥に逃げ込んだ高頼を追い近江滞陣が長引くうち肝心の義尚が病に倒れた。病気の知らせに京から駆けつけた母の富子は懸命の看病にあたったが、それもかいなかった。
義尚は延徳元年(1489)三月二十六日朝、鉤ノ里(まがりのさと)の陣中で、二十五才を一期に没した。足利義尚の遺体はその三十日、京に帰った。服葬の列は公家衆を先頭に、富子の輿、遺骸を収めた将軍の輿、それに女房衆や乳母(めのと)らと続き、雨に降り込められた都大路を進んだ。
等持院の菩提所に赴く我が子と富子は一条室町で別れた。別離の涙があらためてあふれた。「一条ニテ御台(富子)御コシノ内ニテ、コヘモヲシマズムズカリケリ、シルモシラヌモナミダナガシケリ」そのさまを当時の記録は伝えている。
その後ほどなく卯の花の咲く陰暦四月、富子は先の一首を詠んだ。ちょうど十年前の三月内裏で催された百韻の連歌で
けふも又 ながき日くらし 花を見て
と付けたあの頃の力にあふれ華やかだった自分が夢のようだった。成長した後はとかく思いのままにはならなかった子だがそれでもその足利義尚を失った後、富子には高利貸しのマネまでして巨大な富を蓄えた”女の戦い”の日々がむなしく、彼女の胸中には様々な思いが去来した。
将軍職かけた母の戦い
すでに八才で将軍の地位に就いた義政には、この時もう何人かの側室がいた。その筆頭格で義政の愛をほしいままにし、幕府の政治を左右していたのが今参局(いままいりのつぼね)だった。彼女は富子の嫁入りに先立って、女児を生んだばかり。その気勢は炎のようだ_とまでうわさされた今参局。彼女こそ富子の勝たねばならない最初のライバルだった。
結婚五年目、富子は最初の子を生んだ。男児だったという。義政にとっても初めての男児だった。だが、この待望の子はすぐ亡くなった。今参局がのろったためだといううわさだった。怒った義政は局を琵琶湖の孤島、沖の島に閉じ込めた。その後間もなく今参局も死んだ。事件の真相は定かではない。だが、富子が義政の母で、同じ日野の出の重子と組んで彼女の死を図ったとも見られている。ともあれ、富子は女の戦いの第一幕に勝利した。
やがて第二幕が開く。今度はもっとスケールが大きかった。それは世の中を、前後の十一年にわたる応仁の乱に巻き込む直後のきっかけになったのだから・・・。
結婚十年、二十六才の冬、富子はまた男児を生んだ。義尚である。だがまた厄介な問題があった。
その以前にも富子は立て続けに女児を生んでいる。女ばかりの誕生にあきらめかけた義政は、弟義視(よしみ)を将軍職の後継ぎに決めた。その正式披露があったのは義尚誕生のわずか三日前だった。
富子には承知ならない。わが子はレッキとした将軍家の跡取りであるはずが、ヘタをすれば将軍どころか出家して坊さんになる運命だ。母として富子はがぜんハッスルした。
義視側の後見人、細川勝元に対抗するため、彼女はそのころ勢力回復が著しかった山名持豊(やまなもちとも)に義尚後見を頼んだ。この結果、聟(むこ)舅の間柄であったこの幕府の実力者二人の仲は決定的に分裂、畠山、斯波(しば)など有力諸家の内紛もからみ、やがて東軍(細川方)十六万、西軍(山名方)九万の兵が京でぶつかる応仁の乱の火ぶたが切って落された。応仁元年(1467)五月のことである。
高利貸しまでして乱世を支配
戦火は京の町を次々に焼いた。
京都人にはなじみ深い「なれや知る都は野辺の夕ひばり」の歌を幕府の役人、飯尾彦六左衛門が詠み、荒れ果てた都のさまに涙したのもこの戦乱の最中である。戦いはだらだらと続き、洛中洛外の人々の生活を脅かした。
それでも富子は”健在”だった。夫の義政は文化人である。それだけに気の弱い男だった。応仁の乱の五年目、文明三年(1471)の八月。夫婦げんかした義政は室町御所を飛び出し、細川勝元の屋敷に滞在した。けんかの原因は富子の浮気・・・とそのころの一文は伝えている。富子もしばらく母親の元へ帰っていた。その一件でなく、以後の例からも義政は妻を締め出すより、難儀をさけて自分が出ていくタイプの男性だった。
当時、京の男どもは
「公武上下昼夜大酒、明日出仕之一衣も酒手下行」公家も武士も昼夜大酒をくらい、宮仕え用の一張羅の衣服も酒代に代えるその場限りの生き方が横行していた。
ところが富子は、京都の入口七ヶ所に設けた関所から上がる収益などをため込み、長い戦いで戦費に困った東西両軍の大名、小名に貸し付け、利息をとって稼ぐ徹底ぶりだった。ある大名など彼女から千貫を借金した。
東山に山荘(銀閣もその一堂)を築き、美と宗教の中に隠遁(いんとん)する義政に対し、富子はあくまで現実の中でたくましく行きていた。いささかどぎつい方法を交えながら。
しかしその彼女に「かばかりの歎く今がはじめて」と涙を流させた義尚の死は、憂き世の思いを新しくさせた。翌年には、夫、義政とも死別する。その後も将軍の地位の後継者をめぐって、富子の策謀は続くが、夫も子も失った今、彼女の力は急激に弱まった。
いさかいもし衝突もした夫、義政だが、失った後はじめて富子は、夫もまた彼女を大きく支えていたことを知った・・・。
彼女は義政に遅れること六年、明応五年(1496)五十七才でその活力に満ちた”戦い”の生涯を終えた。
宝鏡寺
応仁の乱の戦禍から後土御門天皇、足利義政正室の日野富子が逃げ込んでいた。皇女が入寺する尼門跡寺院で人形寺とも呼ばれている。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野 廣
写真 ro-shin