<第10番 玉造稲荷神社> |
折柄夕立雲が羽衣のようにたなびいています。その天女の羽衣は羽衣蝉の羽のように透けて薄いと聞いていますが同様に薄い手ぬぐいを頭に置いて暑い日差しの中を歩いて行くと手ぬぐいをにじみ出て汗の玉がつななります。
こうして玉造の豊津稲荷に到着します。稲荷の祭りは闇祭りで有名ですが、人が人生の闇に迷うのは当然、仏様さえも私ども衆生の親だから子供の為に迷われる。
「ひとのおやの心はやみにあらねども子を思う道にまどひぬるかな」
観音堂は本殿の東北側に建てられていて本尊は十一面観音菩薩です。昔、聖徳太子が守屋を討つ時に稲荷神社に祈り、願いが叶い自らこの本尊及び多聞天、不動様を彫刻して安置したと言われています。
建武の兵乱に、像が厨子を出て室生の巌窟に避難し泰平になると境内の池から白龍が光を放って東に飛び去り再び尊像をお戻しした。
以後も兵乱のたびに奇瑞があったと「摂陽群談」は伝えています。
今も存在する白龍池のやや東に観音堂はありましたが、明治の神仏分離によって毀されたもののようです。
しかし、この観音堂の行方を探し当てた方がいます。
梅原忠次郎氏は昭和16年刊「大阪三十三所観音巡り」と題した小冊子を発行されましたがその中で、もしや東寺町のお寺のいずれかに合祀されているのではないかと勘が働き出かけたところ、海龍寺に石標や普門閣という名前で立つ観音堂を見つけたと報告されています。
玉造稲荷神社
<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>