仏塔古寺十八尊 <第2番 磯長山 叡福寺> |
多宝塔 (重要文化財)
現在の多宝塔は承応元年(1652)に建てられ、内部には釈迦尊像や大日如来像等が安置され、柱には四天王像が描かれているといわれています。
このお寺は聖徳太子御廟所、通称上の太子(かみのたいし)と言われています。
羽曳野の野中寺(中の太子)八尾の勝軍寺(下の太子)とともに太子信仰が息づく寺院。
日本仏教の祖とされるところから太子が亡くなったあとも多くの聖人が太子廟を訪れました。空海、親鸞、良忍、一遍、日蓮などの各開祖の記念物が今もなお山内に残っています。
なかでも親鸞の生涯は太子の信仰とともにありました。
十九歳の春修行に行き詰まって苦悶し太子廟に参籠したところ太子が救世観世音となって現れ真実の道へ導かれたということです。
聖徳太子御廟(三骨一廟)
東西に長い円墳(径54,3m高さ7,2m)横穴式石室で太子と母后、妃の三体を合葬した三骨一廟です。
聖徳太子自らが廟地として選定した磯長廟は叡福寺境内の北側にあります。
叡福寺は推古天皇三十年(622)太子の母、間人太后の眠る御廟に太子と妃の菩岐々美郎女が合葬された折、推古天皇より方六町の地を賜り、霊廟守護のために僧坊十烟(墓守の家十軒)を置いたのが始まりと言われています。
円墳の御廟石室の中央正面に間人大后の石棺が安置され、その全面東側に太子、西側に太子妃の棺が並べられる三骨一廟です。
これは阿弥陀三尊、すなわち母后を阿弥陀、太子を救世観世音、妃を勢至菩薩になぞらえたものです。
その後聖武天皇の勅願で724年七堂伽藍が完成しました。また平重盛などにより修補されますが1574年戦火のためすべて焼けてしまいました。後に豊臣秀頼が勅命により聖霊殿を再建し続いて現在の諸堂が造られ伽藍様式を今に残しています。
大阪府南河内郡太子町太子2146
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