自分の命を本当に生きよう |
いたずらに秋葉の風を待つの命を恃んで、
むなしく朝露の日を催すの形を養う。
この身の脆きこと泡沫のごとく、
吾が命の仮りなること夢幻の如し。
無常の風たちまち扇げば、四大瓦(しだいかわら)のごとく解け、
閻魔の使たちまちに来れば六親誰をか馮(たの)まん。
教王経開題 全集1
秋の木の葉が風に吹かれて散っていくように、束の間の自分の命を頼みにして、朝の草葉の露が、太陽の光がさしてくれば消えていくような身体をなんとか保たせようとして一生懸命養っている。
この肉体のもろいことは、ちょうど水に浮かぶ泡がすぐに消えていってしまうようなものであり、私の命の仮な存在であることは、まるで夢を見ているか、幻を見ているかのようなもので、その一生はまことに儚い、短いものである。
無常(物事の現正は、絶えずうつり変わっていくもので、いつまでもそのままというものではない)の風に扇がれると、この肉体(四大、肉体を構成している地・水・火・風)は、まるで瓦が崩れ落ちてしまったかのように動かなくなり、そして閻魔さんの使者があの世からお迎えにくれば、たとい父母、兄弟、妻子であっても引き止めることもどうすることもできるものではない・・・。
悲しいけれども私たちの生命の一面には、以上のような「別れ」というものがあります。肉体はいつまでも生き続けようと総力を上げて努力しているので自分はいつまでも生きているように思っているけど、いつかはあの世へうつっていかなければなりません。そのことを自分の問題として真剣に考えてみたことがあるでしょうか?
しかしこの世との別れを覚悟だけはしておく必要があります。一度死んだ気になってみて生きる・・・そこに新生の本当の生き方が生まれてくるのではないでしょうか。
引用掲載 弘法大師空海百話 佐伯泉澄 著者