【崇禅寺駅】 崇禅寺・中島惣社 |
【崇禅寺】
嘉吉元年(1441)、足利六代将軍義教を謀殺して、「嘉吉の乱」を起こした播磨守護赤松満裕・教康父子が当時満裕の支配地だった摂津国中島郡へ逃れ、古くからこの地にあった観音堂へ義教の首を埋葬しました。
嘉吉の乱の二ヶ月半後、満裕父子の敗北によって落着、中島郡は恩賞として細川持賢に与えられましたが嘉吉二年(1442)に義教の子、義勝が持賢に命じて義教の菩提追善のために観音堂の所に建立したのが崇禅寺と言われています。
本尊の釈迦無如来は伝教大師(最澄)の作と伝えられ境内の墓地には「義教の首塚」をはじめ細川忠興夫人「ガラシャ玉子の墓」や崇禅寺馬場で仇に返り討ちされた「遠城兄弟の墓」があります。崇禅寺馬場は、崇禅寺とその西にある「中島惣社」の間に広がっていた三町ほどの松原の俗称です。豊臣秀吉時代の馬場と伝えられます。正徳五年(1715)この馬場で、大和郡山藩士の遠城兄弟が、彼らの異母弟を殺害して出奔中の同藩士生田伝八郎に謀られ返り討ちにされるという事件がありました。この事件を竹田小出雲・近松半二が浄瑠璃に仕立てて、宝暦八年(1758)に竹本座で上演し、大評判をとったのが名作「敵討崇禅寺馬場」です。また明治維新で設置された摂津県・豊崎県、県庁所在地として五ヶ月間、このお寺が県庁とされていました。
【中島惣社】
建年代は不詳ですが、孝徳天皇が長柄豊碕宮に遷都の時五穀豊穣を当社に祈願し神領を寄進したと伝えられ古くは「稲荷社」と呼ばれていました。
参考引用掲載 大阪を歩く
写真 ro-shin