Pilgrim 東西南北巡礼記 :役行者物語
2007-04-05T20:21:31+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
<最終回 小角の最後 日本を去る日>
http://pilgrimari.exblog.jp/3132180/
2006-02-03T00:56:00+09:00
2007-04-05T20:15:29+09:00
2006-02-03T00:56:16+09:00
ro-shin
役行者物語
小角は前鬼と後鬼を呼んで
「わたしはいよいよ日本を離れて行くが、お前たちを連れて行く事はできない。しかし、私の魂はこの大峯に置いて行きたいと思う。これから後はおまえたちが大峯山に修行に来る人たちをお守りせよ」
と命じて聞かせました。それから小角は静かに髭をそり落としました。鬼たちはその髭を埋めて塚をつくりました。
髭塚としていまでも深仙の地に残されています。
小角は先祖の供養を無事にすませたので誠に清々しい気持ちで茅原の家へ帰ってきました。しかし、年老いた母の白專女のことが大きな悩みでした。
老い先の短い母をこの国に一人残して行く事はできず母を伴って名残を惜しみながら茅原の道場を後にしました。
前鬼や後鬼は峠まで見送ってきましたがなおもついてこようとする鬼たちを押しとどめ、暗峠をこえて箕面を目指しました。
母とともに箕面に着いた小角は、まず一の滝の滝元で竜樹菩薩にお祈りしてから不動明王と孔雀明王の呪文を繰り返し唱えました。文武天皇の大宝元年(701)の6月7日、まだ夜も明けやらぬ暁の頃、小角は母の手をとりながら滝元から東北にある天上ヶ岳への道をゆっくり登り始めました。小角らはやがて頂上へ着きました。
最後まで従ってきた弟子の本行(ほんぎょう)に向かって
「私はすでに年も68歳になった。私は仙人としての永久の寿命であるところの本寿がある。したがっていつまでも年には限りがない。しかしながら人間としての寿命は今年で尽きてしまう。
お前たちは、これを決して歎いたり悲しんだりしないでほしい」
と告げました。そしてさらに、
「わたしは修行によって得た法を日本に残しておきたい。
お前たちがわたしに会いたければ一心に修行をしなさい。そうすればいつでもわたしに会えるだろう。わたしはたとえ、この日本を離れてもわたしの魂はいつまでも大峯にとどまって決して他には移らないであろう」
と遺言を残しました。小角はそういって
本格円融の月は 西域の雲に隠るるといえども
方便応化の影は なお東海の水にあり
と書いて本行に手渡しました。
それから小角は鉄鉢を傍の岩の上に置きました。
そしてまず、四方を拝して一心に祈りました。すると不思議な事に母はしだいに小さくなって行きました。小角は母に鉄鉢の中に入るようにいいました。
箕面の天上ヶ岳では山の神も水の神も小角と母が去るのを悲しみました。山の木も草もシュクシュクと泣いてその色さえも変えました。崖の岩や谷の石のすすり泣くようなその声が地面から伝わってきました。
小角は母を乗せた鉄鉢を片手に捧げてようやく明けた暁の空の中を五色の雲に乗り天に昇って行きました。
こうして小角は、母とともに日本を離れ去って行きました。
それは大宝元年(701)6月7日の事でした。
そののちに豊前の国の英彦山や備前の国の平戸などで修行したと伝えられたと言われています。朝鮮の新羅の国で見かけたという人もいます。摂津の国で見かけたという人もいて
「これはおかしい」
ということになり、みんなで役行者を納めた棺を開けてみるとにしました。棺の中には袈裟と錫杖と鉄の下駄だけでご遺体はなくなっていたということです。
むかし中国では、仙人は普通の人たちには死んだと見せかけて本当は生きていることを「尸解仙」(しかいせん)といいました。これは仙人だけがなし得る事だそうです。
役行者も大峯で仙人になられたのでしょうか?
その後、小角は修験道を開いた元祖として人から大変に崇拝されました。
寛政11年(1799)の正月に役氏正統聖護院門跡盈仁(えいにん)法親王が役行者が亡くなられてから一千百年の遠忌に相当することを天皇に文書をもって奉りました。
かしこくも、時の光格天皇は同年正月二十五日に役行者の偉大な功績を賞賛なされ勅使として烏丸大納言を遣わされて
「神変大菩薩」(しんぺんだいぼさつ)という称号を贈られました。それ以来、優婆塞役行者小角は「神変大菩薩」と称されるようになりました。
完
長い間読んでいただきありがとうございました。少しでも役行者のことがわかっていただけたら嬉しく思います。
<写真 箕面 山上ヶ岳より引用 著者 銭谷武平>
]]>
<第39回 小角の最後 先祖の供養>
http://pilgrimari.exblog.jp/3125767/
2006-02-01T23:29:00+09:00
2007-04-05T20:16:02+09:00
2006-02-01T23:29:29+09:00
ro-shin
役行者物語
無事に帰ってこれた事を神仏のおかげと心から感謝してお礼参りの旅へ出ました。
最初に箕面の滝元へ行って竜樹菩薩にお詣りをしました。
次には遠い熊野の三所権現にお詣りをしました。
いよいよ最後に大峯山の蔵王権現にお詣りにするために山上ヶ岳のふもと、後鬼の里の洞川にたどり着きます。
小角が流されてしまった事はこの里にも伝わっていましたので行者さまが無事にお帰りになられたと聞いて村中の人が集まってきました。
みんな大喜びして踊り回ります。
毎年8月に行われる洞川の「行者祭り」は行者さまが伊豆から無事に変えられた事を祝った村人たちの喜びを表した行事です。
さて小角は何事かを心に秘めて悩んでいる様子でした。
小角は日本の国から離れる覚悟を決めたようです。小角は日本を去る前に、まず、先祖の供養をしておかなければと気がつきました。そこで一番ふさわしい場所として大峯の奥にある霊地の深仙に赴いてゆきました。ここは大峯山中でも不思議な霊気が漂う静かなこもり場で小角はまず罪汚れをはらう呪法を行いました。
それから毎日こつこつと小石を集めては一心に卒塔婆を刻み始めついに一千基になりました。いよいよ先祖の供養の式を空鉢ヶ岳でする事にしました。
その法要の導師は唐の国では第三の仙人と尊ばれている北斗大使にお願いをしました。
3月12日の供養の日に金剛童子と寂光童子が迎えに出て、大師とともに金剛仙と神仙の峯を越えてまだ夜も明けやらぬ寅の時刻(午前4時頃)に深仙に着きました。
そのとき神通力をもった天の神山の神たち、さらに方々の山から仙人たちが380人も加わって所狭しとばかり集まりました。
法事の式は厳かに行われまず小角は立ち並んでいる千基の石塔を前に、うやうやしくぬかずいて北斗大師のもとで盛大に供養が行われました。夕闇の迫る申の刻(4時頃)にすべての行事が終わり、小角は最後に
「どうかこれらの塔婆を私が願う場所にすみやかに隠したまえ」と願って天地の神々に祈りを捧げました。
未来の世に弥勒菩薩さまがあらわれるときこの隠された石塔があらわれると言われています。
<写真 ならグルグル散歩より引用 著者 銭谷武平>
役行者物語もいよいよ終わりに近づいてきました。もう少しなので最後までおつきあいをお願いします。
]]>
<第38回 小角 我が家へ> 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3119806/
2006-01-31T23:23:00+09:00
2007-04-05T20:17:11+09:00
2006-01-31T23:23:58+09:00
ro-shin
役行者物語
小角が島の役人に大和へ帰りたいというと、役人は驚いていましたが許します。小角は都から迎えが来ている事がわかっていたからです。大和へ帰ると早速天皇から呼び出されました。
誠に丁重な取り扱いだったのです。そのとき天皇は小角に対して自ら黒い冠を授けました。
今大峯山で修行する修験道の山伏たちは額に黒い丸い兜巾(ときん)というのをつけています。これは、小角が授かった黒い冠をあらわしていると言われています。山伏は山中でこの帽子を裏返して水をうけて飲むのです。
伊豆から小角が帰ると言う知らせは役所から小角の家にも伝えられました。葛木おろしの風が吹く寒い真冬であったけれども喜んだ茅原の村人たちは松明を燃して、焚き火をして暖をとりながら行者をお迎えしました。これが毎年行われている有名な「茅原のトンド」の始まりであるともいわれています。
毎年、正月の14日には、茅原の吉祥寺の境内でトンド祭りが行われています。
小角が我が家に帰ってきたときは、家の周りはススキや茅の雑草が生い茂って、母の白專女(しらとうめ)は痩せこけて髪の毛も真っ白になって小角の帰りを待っていたのでした。
今、都では大変な勢いで疫病が流行って来て、天皇も非常にしんぱいしていましたが小角が帰ってきてからは疫病の流行もおさまってしまいました。天皇は、この著しい霊験に驚いて茅原の寺で大法界を催す事にして寺に、水田十町歩を寄付されたと伝えられています。
<写真 吉祥草寺左議長(茅原のとんど)引用 著者 銭谷武平>
]]>
<第37回 小角の死刑中止> 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3115395/
2006-01-31T00:33:00+09:00
2007-04-05T20:18:01+09:00
2006-01-31T00:33:32+09:00
ro-shin
役行者物語
百姓たちは大変困っていました。自分たちの食べる米はもちろん税金としておさめるものも全くありませんでした。
文武天皇は人々の事をとくに心配して頭を痛めていました。
そんなある夜のこと天皇は夢の中で不思議な童子に会いました。
童子は
「この国の稲も麦も今年はよくできないであろう。この国では聖者を罪に陥れてその上、死刑にしようとしている。そのために天の星の動きもよくない。なぜそんなことをするのか」
と厳しく問いつめました。
天皇は驚いてお前は誰かとたずねると童子は
「われは北斗の星である」
と答えて消えました。
誠に後味の悪い夢で天皇はいろいろ考えて眠れませんでした。
翌朝、天皇はすぐに役人を呼んで昨夜の夢の事を話しました。
すると役人たちは
「それはきっと伊豆に流した役の小角のことに違いありません」
と告げました。また役人は写してきた秘文のことも天皇に報告しました。
天皇は小角を無罪としてすぐに都につれて帰るように命令しました。
<参考引用 著者 銭谷武平>
]]>
<第36回 死刑執行②> 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3110402/
2006-01-30T06:44:00+09:00
2007-04-05T20:18:34+09:00
2006-01-30T06:44:25+09:00
ro-shin
役行者物語
その時です。不思議なことが起こりました。
鋭く輝く刀身に、くっきりと文字がが浮かび上がりました。
それは富士明神の秘文だったのです。
立ち会いの役人はびっくりしました。何を思ったのか彼は矢立てから筆を取り出してその秘文を書き写しました。
ためらっていた役人も再び気合いを入れて力いっぱい振り下ろしました。カチンと音がした瞬間に刀は三つに折れて飛び散ってしまいました。役人は腰を抜かして真っ青になって震えています。
遠くからこの様子を見ていた島の流人たちの間にもざわめきが起きました。
ようやく立ち上がった役人は島の役人もまじえて相談をします。
小角を死刑にするのはこのさい一応とりやめた方がいいという事になりました。役人たちは急いで都に帰って伊豆の小角の様子や、恐ろしかった死刑の日の事、また刀に写った文字の事などを詳しく報告しました。
<参考引用 著者 銭谷武平>
]]>
<第35回 小角に死刑執行①> 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3103315/
2006-01-29T00:30:00+09:00
2007-04-05T20:18:59+09:00
2006-01-29T00:30:53+09:00
ro-shin
役行者物語
小角を死刑にする為に二人の役人が伊豆大島に遣わされました。
2月25日に伊豆大島に着きました。この時に島の流人たちの間にちょっとした騒ぎが起きました。
囚人たちは新しい流人が来たのではなくただ二人の役人が来ただけでだったので、これは誰かが死刑になる使いである事に気づきました。
都からの役人は島の番人に向かって役の小角が死刑に決まった事を伝えました。島の役人はもちろんの事島の囚人たちも驚きました。
島では日頃は役人も囚人も小角の事を慕っていたからです。
しかし小角はいつもと変わらない様子で悠々と沖を眺めていました。
死刑が行われる事になりました。囚人たちは皆小角を哀れみの同情の眼で事の成り行きを見つめていました。
小角は砂の上に敷かれた藁むしろに上に平気な顔をして座っていました。小角は役人に刀をちょっと貸してくれるように頼みました。役人は斬る事もできずにそっと小角に刀を渡しました。
小角は静かに刀をとって肩、両手、足から腹へとからだを撫で付けました。撫で終わると刀を返してから静かに目を閉じました。
いよいよ、役人は刀をしっかり握りしめさっと振り上げました。
<参考引用 著者 銭谷武平>
]]>
<第34回 死刑の宣告 謀反の疑い>
http://pilgrimari.exblog.jp/3097904/
2006-01-27T23:55:00+09:00
2007-04-05T20:19:27+09:00
2006-01-27T23:55:10+09:00
ro-shin
役行者物語
葛城山から金峯山にかけての山林修行者たちが山人たちを巻き込んで何か怪しい事を企んでいるという噂が役人の耳にも入りました。
また火薬のようなものを作っているらしいという密告もありました。
あるいは山で金を掘っていたらしい跡があると届け出たものもありました。
文武天皇700年になって検察使が畿内に遣わされました。
いろいろと調べて行くうちに、どうも伊豆にいる小角について怪しい疑いが出てきました。しかし、証拠になるようなものは何もないので役所は困っていました。
役人たちは小角を重い罪にする証拠が欲しかったのです。
観国連広足(からくにむらじひろたり)が小角について密告してきた事もさらに調べ直したところ小角には「妖惑の罪」のほかに謀反の疑いがあるということになりました。
そこへ葛城の一言主神につかえていた神人が、神のお告げだと言って小角についておかしなことがいわれているという知らせが、役所に届きました。
「役の優婆塞が帰ってくる。
優婆塞が帰ると大和の国が滅ぶ。早く、殺してしまえ。死置きだ。
死刑だ。
優婆塞が飛んでくると大事になるぞ」
うわさはうわさを呼んで人々の間に広まって行きました。
それは小角を早く死刑にしないと山林修行者たちが集まって謀反を起こすという事であったのです。
これは広足が訴えた通りであったのです。
このことが検察使の耳に入ったので、改めて重い罪にする事になりました。
新しい律令によると、国に対しての謀反者は「みな斬る」事になっています。小角は死刑に決まったのです。
<参考引用 著者 銭谷武平>
]]>
<第33回 伊豆の奇変----島での呪術修行②>
http://pilgrimari.exblog.jp/3092632/
2006-01-26T23:56:00+09:00
2007-04-05T20:20:08+09:00
2006-01-26T23:56:14+09:00
ro-shin
役行者物語
新しい法律や命令である「律令」が決められてそれを実行しようとしています。また新しいお金を作る案もあり、その為に金、銀、銅などの金属が必要になってきました。
それで各地の国の役人に金銀のある山を調査するように命じます。
近江、伊勢、伊代の国などから報告がありますが思ったほどの量ではなかったのであらためて畿内に巡察使が派遣されました。
すると山林修行の優婆塞たちが密かに金を探っているということがわかり、再び伊豆に流されている小角にあらたな疑いがかけられ、厳しい検察の目が向けられたのでした。
その頃、瀬戸内海の海を一隻の小舟が漂っています。
舟には前鬼と後鬼(義覚と義玄)が乗り込んでいます。小角が伊豆大島へ流されたので茅原の新井の里で祀っていた「熊の権現」をどこか安全な場所へお移ししたいと場所を探していたのでした。
いろいろな困難を乗り越えて、かろうじて、岡山に近い石榴の浜にたどり着く事ができました。そこの地主神である福岡明神に導かれて「熊野権現」を鎮める事ができました。
<倉敷市西阿知町 新熊野権現>
<参考引用 著者 銭谷武平 写真 新熊野より>
]]>
<第32回 伊豆の奇変----島での呪術修行①>
http://pilgrimari.exblog.jp/3086789/
2006-01-25T23:33:00+09:00
2007-04-05T20:20:49+09:00
2006-01-25T23:33:50+09:00
ro-shin
役行者物語
小角の修行生活は葛木や大峯などの険しい山を巡る山林の中の暮らしが多かったので、
毎日太陽が照りつけ潮風に吹かれる海辺の生活は小角にとってまったく新しい経験だったのです。
珍しい生活も日が経ってくるにつれて慣れてきて、また呪術の修行をしなければいけないと思うようになりました。
小角は空に登る飛行の術を試みました。(とうてい信じられる話ではありませんが)いつも眺めている富士山へ飛んでみようと決めると、まるで羽が生えたようにフワフワと飛べたのでした。
昼間は刑に服し、夜になると鎌倉、箱根、熱海などの上を飛んでいたのでした。小角は富士山のふもとで修行しその事は今も伝えられています。
その頃、伊豆大島では次々と不思議なことが起こって村人たちは気味悪がっています。
大島の雲の中から五重塔がそびえ立っているとか、夜になると三原山からたいまつのような火の行列が天へ昇って行くとか色々な噂が広まって、その現象は小角が飛行の術を使った後にあらわれるのでした。
小角は天気の悪い日には岩屋にこもって流木に仏像を彫ったりして3年の月日が経っていました。
<参考引用 著者 銭谷武平 「役行者ものがたり」 写真 伊豆大島ガイドより>
]]>
<第31回 妖惑の罪> 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3081925/
2006-01-25T00:58:00+09:00
2007-04-05T20:21:31+09:00
2006-01-25T00:58:02+09:00
ro-shin
役行者物語
役人をやっつけるのは簡単な事ですが、もし母に怪我をさせたら大変と自ら役所へ出かけて行きました。
一言主神の訴えで小角を謀反の罪で取り調べますが、証拠になるような者もなく、小角に関わった人々も呼ばれて取り調べられました。
小角が変な呪いをしたりインチキな薬を飲ませたということで
「妖惑の罪」として裁判にかけました。
その頃定められた律令によると「妖惑の罪」を犯した者は遠流といって地方へ流されるのです。
遠流にも近流・中流・遠流とあって、最も近いのは北陸の越前、愛媛県の伊予、もっとも遠いのは茨城県の常陸の国など六カ国が決められています。
小角は中流の伊豆大島に決められました。
699年5月25日に役人に連れられて船で伊豆大島へ向かいました。
途中、大嵐にあい幾度か船が沈みそうになりましたが、役行者が船のへさきに立って一心に「孔雀明王の呪」をとなえました。すると不思議な事に嵐が止んで波がおさまったのでした。
伊豆大島が見えたときには役人や舟乗りたちは飛び上がって
「行者さま、小角さま」といって心からお礼を言いました。(写真は役行者が修行した役行者洞が残されています)
伊豆大島は周りが約十里もあるかなり大きな島です。島の中心にある三原の山の火口から真っ黒い煙と真っ赤な火が噴き出しています。
小角は島の東北の海辺にある泉津村というところに連れていかれました。
島の流人たちは日焼けした顔に鋭い目をして新しく送られてきた小角の顔を探るような目つきで睨みつけていました。地図の印のところが泉津です。
<参考引用 著者 銭谷武平 「役行者ものがたり」 伊豆大島ガイドより>
]]>
<第30回 小角と一言主神(ひとことぬし)②>
http://pilgrimari.exblog.jp/3075284/
2006-01-23T23:10:00+09:00
2007-04-05T19:15:26+09:00
2006-01-23T23:10:49+09:00
ro-shin
役行者物語
葛木山にはいろいろと難所が多かったのです。そこで小角は険しい谷に橋を架ける事にしました。吉野の金峯山と葛木山との間に岩橋を架けようとしたと伝えられています。岩橋というのは川に石を投げ込んで、その石を伝わって渡れるようにする事です。
小角は橋を架ける為に一言主神や鬼神を呼び集めて橋を架ける仕事を命じました。しかし鬼神たちは仕方なく嫌々ながらも仕事にかかりました。工事の進み具合が悪いので様子を見ると、鬼神たちは昼間は作業をせずに夜だけしか働いていなかったのです。何故かと問うと、自分たちの顔と格好が醜いので里の人に見られたくないというのです。日中も働くようにと言いつけます。
それでも工事の進みが悪いので調べて見ると一言主神が鬼神と示し合わせて怠けている事がわかりました。
小角は大変怒り、呪術をつかって一言主神が身動きできないように金縛りにしてしまいました。一言主神は恐い顔に似合わず大きな声を出して泣き叫びます。
小角は藤のツルでぐるぐる巻きにして谷底に投げ込んでしまいました。
それからというもの一言主神の大きな泣き声が峰中に響きわたりました。
一言主神はついに恨みが積もって、その魂が賀茂の社の神人の身に乗り移りました。さあそれからが大変な事になりました。賀茂の社の神人は気が狂ったようになってしまいました。
社の前を人が通る大人にでも子供にでもかまわずに叫び続けました。
「賀茂の役の優婆塞が国を傾ける。謀反だ!謀反だ!早く捕まえて牢屋へ入れろ!捕まえろ。捕まえろ。今に国が滅びるぞ!」
といって叫びます。
一言主神の魂が乗り移った神人たちの言葉をそのままにしておく訳に行かず、とうとう役人が小角を捕らえる為に立ち上がりました。
大勢の役人が小角を取り押さえようとしても、金縛りの術などをつかったり空へ飛び上がったりしてなかなか捕まえられず、小角の評判はいっそう高くなって行きました。
<参考引用 著者 銭谷武平 「役行者ものがたり」より>
]]>
<第29回 小角と一言主神(ひとことぬし)①>
http://pilgrimari.exblog.jp/3069744/
2006-01-23T00:08:00+09:00
2007-04-05T19:15:00+09:00
2006-01-23T00:08:41+09:00
ro-shin
役行者物語
<写真は一言主神社>
その昔、雄略天皇の頃の事です。
ある日天皇が大勢の家来を引き連れて葛木の山に苅りに来ていました。
いよいよ帰る時になって山を下りてきました。
すると向うから不思議な行列がやってきました。見ると偉そうな男が大勢の家来を連れてこちらにやってきます。
よく見ると彼らの服装も、持っている弓や剣も人数も、こちらの雄略天皇の行列とまるで真似をしたようにそっくりだった。
雄略天皇は、この国には自分の他には天皇はいないと思っていたのにとびっくりしました。
天皇は怒って家来に弓に矢をつがえさせると、向うも同じように矢をつがえてこちらを狙っていました。
そこで天皇は相手に「名を名乗れ」
と言いました。
雄略天皇は、じぶんはこの国の天皇であると告げると、
「我は、悪い事も一言、善い事も一言、言い放つ神。
葛城の一言主の大神である。」
と答えました。
雄略天皇は、この葛木の山に住むと言う一言主神に畏れをいだいて剣や弓、衣などを差し上げ長谷の山の入り口まで丁寧に見送ったという事です。
<参考引用 著者 銭谷武平 「役行者ものがたり」より>
]]>
<第28回 小角を密告 > 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3064170/
2006-01-22T01:11:00+09:00
2007-04-05T19:16:07+09:00
2006-01-22T01:11:15+09:00
ro-shin
役行者物語
その頃、吉野の宮滝にはすでにに離宮がありました。
又、葛木や吉野の山の中に入って仏教の修行をする人がしだいに増えてきました。これらの山林修行者たちも大勢が集まって大きな集団になって行きました。
そのなかでも役行者が特別に偉い呪術者である事を知らない人がいないほど有名になっていました。
ある日、小角の前に韓国連広足(からくにのむらじひろたり)という一人の青年が、弟子になりたいとあらわれました。広足は小角の呪術が非常に優れているという評判を聞いて弟子になりたいと一生懸命願い出たのでした。
広足はなかなか利口そうな大物になる男に見えたので小角は弟子になる事を許しました。
広足はもともとは大和の豪族である物部一族の者で役人になりたいと思っています。
小角についてからはいっそう勉強にはげみました。
その頃、小角と言えば呪を立てたり薬物になる草木を探し求めたり、金山らしい山をさがしては掘りかえしたりと、弟子たちにも理解しがたい行動を取ったりするのでした。
広足は評判とは違う小角にがっかりし始めました。小角は広足には呪術を少しも教えようとしないし、お経も何も教えてくれませんでした。
もともと呪術は誰にでもできるものではありません。呪術者になれる者は生まれつきの素質によるもので、頭がいいからと言って良い呪術者になれるとは限りません。広足は、しだいに自分は呪術者にはなれないということがわかってきました。広足は希望を失ってしまって修行にも熱が入らなくなりました。そして、ついに広足は呪術の修行をやめてしまって山を下りてしまいました。
広足は自信の強い男でしたから、この事が悔しくてたまりません。思いあまった末に、小角の事を憎むようになってきました。
ついには仕返しをしようと決心します。
(写真は向かって右、葛城山 左、金剛山)
後に広足は、異例の出世をはたし地方官としての最高の外従五位という位になりました。
彼はなんとかして小角に仕返しをしてやりたいと、その方法を考え続けました。
小角は農民たちが困ったときには呪術をつかって助けています。
しかし、広足には農民たちをたぶらかしているとしか思えないのです。
とうとう広足の頭は狂ってしまいました。
ついに彼は「小角は人々をたぶらかして国を傾けるような悪い事を計画している」ともっともらしく役所に訴えたのでした。
<参考引用 著者 銭谷武平 「役行者ものがたり」より>
]]>
<第27回 大峯の十界修行> 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3057446/
2006-01-20T23:30:00+09:00
2007-04-05T19:16:39+09:00
2006-01-20T23:30:16+09:00
ro-shin
役行者物語
修験道では、峯に入るには「カンマン姿」に着替えて変身します。
これは山中の厳しい修行によって迷いの世界から悟りの世界に入って変身する事、すなわち即身成仏への道をゆく姿です。
このようにして大峯の登山を何回も繰り返しているうちに小角が山中で修行した心に通じるようになって、自然に悟ってくると言われます。
役行者の教えは特に何も書き残されてはいませんが、心から心へ、口から口へ言い伝えられています。
「わがあとを継がんとする者は、十界頓超(じっかいとんちょう)の行をしなさい。行をすると、心身につきまとって心を乱していたものがすべて離れてしまう。そして、必ず悟りに入る事ができる」と、山に登って修行する者たちに教えられています。
十界というのは人間が悟りを得るまでの間にあるところの十の世界の事です。われわれは修行をすることによって、人間の迷いの世界から、菩薩の世界へ移ってついには仏の世界へ入る事ができるのです。
これを速やかに成し遂げる事ができる行が、小角の「頓超の行」なのです。
①床堅(とこがため)地獄・・・自己に仏性があることを感じさせる修行法
②懺悔(ざんげ)餓鬼・・・自己の罪を懺悔する。
③業秤(ごうはかり)畜生・・・修行者の罪あるいは業をはかる。
④水断(みずだち)修羅・・・水の使用あるいは飲む事を一切禁止。
⑥相撲(すもう)天・・・修行者が相撲をとる。
ここまでが六道の修行。
⑦延年(えんねん)声明・・・長寿を祝う舞をまう。
⑧小木(こぎ)縁覚・・・修行者が採燈の先達に小木をおさめる。
⑨穀断(こくだち)菩薩・・・七日間穀類を一切断って修行すること。
⑩正勧請(しょうかんじょう)仏・・・修行者は先達たちから大日如来の秘印が授けられ、即身成仏する。
そもそも修験道というのは自分自身が山に登って修行する事です。
山登りも苦しい修行の経験を積む事によって心も体も鍛えられて仏の悟りを得られるようになる道なのです。
これが、今も残されているところの役行者の教えなのです。
「ざんげ、ざんげ、六根しょうじょう」と唱えながらひたすら山に登る事を繰り返します。
<参考引用 著者 銭谷武平 「役行者ものがたり」より>
]]>
<第26話 前鬼と後鬼について 2> 役行者物語
http://pilgrimari.exblog.jp/3052496/
2006-01-20T00:20:00+09:00
2007-04-05T19:17:07+09:00
2006-01-20T00:20:30+09:00
ro-shin
役行者物語
善童鬼(ぜんどうき)は陽を表す赤い色の鬼で、
右手には鉄の斧をもって背中には笈を背負っています。
頭には怒りの髪をなびかせて口は固く吽と閉じています。
後鬼の妙童鬼(みょうどうき)は、陰をあらわす青色の鬼で
白面の顔に髪がかぶさって口は阿と開いています。
手には大慈悲の理水が入っている瓶をもっています。
また背には種を入れた笈を背負っています。
<写真は洞川>
役行者には義覚と義玄という弟子がいましたが、
二人は鬼形をしていたのでこの二人が前鬼、後鬼であったとも伝えられています。
小角は、彼らに、山中の修行者に仕える大切な仕事として、
水をくむ事、薪を拾う事、食べ物を作る事などを教えました。
鬼たちの子孫は、後に、奈良県吉野郡下北山村にある「前鬼の里」に住みつきました。
五人は後鬼としてそれぞれ五鬼熊は不動坊、五鬼童(五鬼堂)は行者坊、五鬼上(五鬼円)は中の坊、五鬼継(五鬼作)は森本坊、五鬼助は小仲坊といって山伏のために宿坊をかまえて奉仕を続けました。
大峯修行の人々の道案内をしたり、宿の世話などをすることが、小角から言いつけられた鬼たちの子孫のつとめなのです。
一方の後鬼は、奈良県吉野郡天川村洞川にすんだといい、
洞川(どろがわ)の人たちは後鬼の子孫であると言っています。
大峯から熊野への奥がけ修行には前鬼の人は深仙や釈迦ヶ岳、
前鬼の裏行場のあんないをします。
また後鬼の子孫とする洞川の人は山上ヶ岳や小笹の行場を案内して
それぞれの修行者のために仕えたという事です。
実際に五鬼の子孫に会われたかたのblogです。ぜひ訪ねてください。
KOTOこれ2006 五鬼物語
<参考引用 著者 銭谷武平 「役行者ものがたり」より>
]]>
https://www.excite.co.jp/
https://www.exblog.jp/
https://ssl2.excite.co.jp/