Pilgrim 東西南北巡礼記 :大坂三十三観音
2018-03-09T12:42:39+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
<第33番 御霊神社>
http://pilgrimari.exblog.jp/3259547/
2006-02-26T22:16:00+09:00
2018-03-09T11:51:54+09:00
2006-02-26T22:16:02+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
稲荷の神社も、また最後の新御霊も共に神社ですが、仏も神も水と波のごとく本地の仏が日本の神と垂迹して顕われ給うたもので同体と見ます。
この理を現して社殿と観音堂の甍を並べます。この三十三番目の札所に拝み詣でて大坂巡礼の納めの札も打ち止めになります。
観世音は民草のために浮薄な世に交わり、三十三身と種々に御身を変化させ時には遊女にも変じて色で煩悩の苦しみへ導き、情けで人間世界の因果限界を教え恋を悟りへの架け橋となし、生死の大海を経て彼岸へ渡し衆生を救ってくださる観世音。
その済度の誓願はまことに霊妙にしてありがたいかぎりです。と近松は観音賛美の中にこの道行きを終わります。
心中事件の女主人初は、恋に苦しみ死の翳りにおびえながらこの巡礼を果たし終えた彼女の未来での成仏疑いない(巡礼の十得の中の一)有り難さを実感しています。
それが舞台の上ではお初の姿が紫磨黄金の観音の仏体と変じ(からくり仕掛けによって)、近松の文章もあたかも初が観音の化身であったのごとき文辞で観客に彼女の未来をはっきりと予見させながらこの場を終わります。
観音堂は境内の東南隅にあったらしく、十一面観音で慈覚大師作であった。神仏分離後下寺町の随求寺に移りさらに同所、西照寺に移ったと報告されています。
お初「観音巡り」の道行きはこれでおしまいです。
ここで「巡礼の十得」を書き記しておきます。
1726年の「西国巡礼33所霊験記」より
一 火難、水難、横死の難、盗賊の難をまぬがる。
二 悪畜、毒虫、すべての獣にあひ死することなし。
三 毒薬、無実のなんをまぬがる。
四 雷電、落馬の死をせず。
五 厄難、熱病、すべての流行病をうけず。
六 海川、船に乗って風波の難をまぬがる。
七 寿命長久、子孫はんじょうを守り玉う。
八 諸神諸仏、応護し玉ふ。
九 諸願成就せずということなし。
十 諸々の罪障滅して極楽浄土へむかうべし。
1744年の十得
① 福寿増長
② 子孫繁昌
③ 衆人愛敬
④ 所求必得
⑤ 衆病悉除
⑥ 身体堅固
⑦ 家宅永安
⑧ 出入神護
⑨ 先亡得脱
⑩ 即身成仏
1791年の十得
① 三悪道に迷わず
② 臨終正念なるべし
③ 巡礼する人の家には諸仏影向あるべし
④ 六観音の梵字ひたいにすはるべし
⑤ 福智円満なるべし
⑥ 子孫繁昌すべし
⑦ 一生のあいだ僧供養にあたるなり
⑧ 補陀洛世界に生ず
⑨ 必ず浄土に往生す
⑩ 諸願成就するなり
現代の巡礼は「三つの幸」といわれています。
① 健康のため
② 観光のため
③ 信仰のため
人生の充実や、心の豊かさが得られるのはすばらしいことだと思います。
この「曾根崎心中」の続きは著作権の問題もありますので掲載することはできませんのでご了承下さい。和泉書院より「曾根崎心中」の書籍が出版されています。
内本町の生醤油屋、平野屋の手代、徳兵衞が遊女お初と恋をしてこの世で一緒になれないゆえに死を選ぶというストーリーです。『・・・・・ 万一逢われないその時は、二人の仲はこの世だけの約束ですか。そうした例がないわけでもなし。死ぬぐらいはたかの知れたこと。死出の山や三途の川は、邪魔する人もされる人もあるまい。」と・・・・
お初天神公式サイト
参考資料 <大坂三十三所観音巡り >]]>
<第32番 難波神社>
http://pilgrimari.exblog.jp/3254978/
2006-02-25T23:23:00+09:00
2018-03-09T11:52:56+09:00
2006-02-25T23:23:10+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
白髪の身ならともかく黒髪匂う若き身は恋に乱れ妄執の夢のさ中にある。その迷いを醒ましてくれるであろう博(貘)労町の札所、ここも玉造と同様、稲荷の神社である。
想像上の動物、貘は夢を食べるといわれ正月宝船をまくらに敷いて吉夢を祈りますが、もし悪夢の時はこの獏の札を置いてそれを食べてもらい凶を去るという習慣がありました。日本では想像上のものとされていますが、じっさいに同名、同形の獏は実在します。
博労稲荷は正しくは上難波仁徳天皇宮といいまして、俗に博労稲荷と呼ばれていました。今の難波神社です。北へ向かえば東本願寺に至ります。南の鳥居の内に観音堂があって本尊十一面観音、恵心僧都の彫刻とされます。神仏分離後、下寺町の善龍寺に移されています。
参考資料 <大坂三十三所観音巡り >
境内から見える高層ビル]]>
<第30番 三津寺〜第31番 大福院>
http://pilgrimari.exblog.jp/3249817/
2006-02-24T21:59:00+09:00
2018-03-09T11:53:49+09:00
2006-02-24T21:59:34+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
早朝からの巡拝、多くの寺々を巡りこれこそもう30番まで達しました。その寺の名は三津(満つ)寺。そのご本尊十一面観音の御誓願、広大無辺の大慈悲を頼みにして願をかけ衆生済度の手引きの糸を仏のみ手にかけ奉る。
大阪ミナミを代表する夜の繁華街の真ん中に位置するこのお寺は大阪大空襲にも類焼をまぬがれたと言われています。
古き難波の州の中に楠の古樹がありました。仁徳帝の時、この木に霊光があり帝が使いをやって調べさせたところ中から黄金一寸八分の十一面観音一体を得ることができました。
聖徳太子はこれを信仰され、また自らも木像の十一面の木像を手ずから造られ金像をその腹内にこめられたと言ういわれを持ちます。
天竺・震旦・和朝の三国一の仏として三寺というとも難波の古名三津(高津・敷津・難波津からなる)をとっての名とも伝える古刹であります。
大福院
引接(いんじょう・仏が衆生を引き導くこと)し給い、極楽往生させ給えと仏の御手にかけ奉り自分の手に一端を握りしめる五色の糸の一色、その名に因む白髪町の観音堂に詣でる。本尊十一面観音は仏師春日の彫刻といわれ長谷寺の本尊と同木と言われている。
真言宗大福院がこれを守っていました。新町の遊郭の東、あみだ池の北側にあり白州崎観音とも称されました
観音像は昔、比叡山に安置されていましたがある夜、一覚と言う僧に像が告げられた。「われ有縁の地、西南の海辺にあり。かしこに行って広く群生を利せん。」
と示されたので一覚がこの地に至り、こここそこの霊地と仮堂を構えたことが始まりです。白州崎は新羅が崎のなまった地名と言われています。昔、新羅船がここに着岸して貴物を奉った所とされています。西行法師の歌に「難波がた汐干はむれて立ち出ん。白州の崎の小貝拾ひに」と詠まれた地です。
大福院は明治になって下寺町の円正寺に移っています。
参考資料 <大坂三十三所観音巡り >]]>
<第29番 大連寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/3244974/
2006-02-23T22:45:00+09:00
2018-03-09T11:54:29+09:00
2006-02-23T22:45:53+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
大阪市天王寺区下寺町1-1-30℡06-6771-2461 金台寺を生玉社から下をさらに北へ戻ると第29番の大連寺に到着します。
観音堂にはかって十一面観音 恵心僧都彫刻がありました。またこの寺には本屋作者、西沢一風などのお墓があります。
一風の著「今昔操年代記」は浄瑠璃の基本書として珍重されています。
この大連寺の手前には浄国寺があり、新町の名妓夕霧の墓があります。夕霧伊左衞門の歌舞伎を坂田藤十郎が演じ名声を博し、近松も「夕霧七年忌」「夕霧阿波鳴渡」など歌舞伎、浄瑠璃を作劇しています。また、知る人ぞ知る、有名なパドマ幼稚園と隣接しています。参考資料 <大坂三十三所観音巡り >]]>
<第27番大覚寺〜第23番金臺寺(こんだいじ)>
http://pilgrimari.exblog.jp/3239563/
2006-02-22T22:09:00+09:00
2018-03-09T11:55:32+09:00
2006-02-22T22:09:07+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
心光寺からさらに下寺町を北へ戻ると同じ並びに大覚寺がある。
信心深く寺々を巡ればたとえ悟りを得ない凡夫の身でさえ大覚、仏の覚悟に一歩近づくことも出来ようと言うもの。
ご本尊十一面観音は弘法大師の鋳像といわれています。
金臺寺 (こんだいじ)
大阪市天王寺区下寺町1-3-88 ℡06-6771-0295
二十八番金台寺は大覚寺の一軒おいてとなりに位置していました。ここも本尊十一面観音で恵心僧都彫刻の尊像です。
大阪七坂
真言坂・源聖寺坂
口縄坂・愛染坂
清水坂・天神坂・逢坂
また機会を見て大阪七坂を紹介したいと思います。
源聖寺坂
(げんしょうじざか)
この坂は金台寺の横にあります。この坂を上ると菩提寺に出ます。このあたりには大阪七坂といって(天王寺七坂ともいいます)七つの坂があります。この源聖寺坂も七坂の一つです。
天王寺区下寺町一丁目源聖寺の南側から生玉寺町に至る狭く曲がった石畳の坂です。
この坂は登り口に源聖寺があるので、その名を取っています。源聖寺坂および口縄坂は上町台地の代表的な坂で、遊歩道としても知られています。最初は石畳道ですが、やがて階段状になって 、いっきに台地に登ります。その付近一帯は、寺町として長い歴史をもっています。
齢延寺には、幕末に泊園書院を興して活躍した儒者である藤澤東がい・藤澤南岳父子の墓があり銀山寺には、近松門左衛門の「心中宵庚申」に出てくる(お千代・半兵衛)の比翼塚が建てられています。 参考資料
大坂三十三所観音巡り ]]>
<第26番 心光寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/3234141/
2006-02-21T21:31:00+09:00
2018-03-09T11:56:19+09:00
2006-02-21T21:31:06+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
逢坂の清水に口をすすぎ煙草に一服して、さて最後に一服の煙をふっと吹き上げて煙管をしまう。その煙はやがて乱れうすくなって空に消えてゆきます。
「風になびく富士の煙の空に消えて行方も知らぬ我が思ひかな」
(新古今集)この歌のように煙と同様のこれからの徳兵衞さまへの私の思いは、二人の恋はいったいどうなるのだろうと、一瞬不安になる煙草(相思い草は煙草の異名)の煙の行方だった。
恋人を思ってつい道草をするうちに日もかたむいた。急ごうとまた出立するが空に立ちこめた雲足があやしい。時雨れて松の下にでも足を止められる前にと逢坂の下からまた北へ戻って畑の間を抜け下寺町に急ぐ。
寺町筋に入って十軒目に信心深い心光寺がある。本尊は十一面観音、伝教大師の彫刻で大和長谷寺の写しの像という。
参考資料
<大坂三十三所観音巡り >]]>
<第25番 清水寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/3230211/
2006-02-21T00:08:00+09:00
2018-03-09T11:57:27+09:00
2006-02-21T00:08:01+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
万燈院にともされた灯の光も輝くそのロウソクの芯にも似た霊験輝く新清水(しんきよみず)に詣でて、ここでしばらく休憩します。 開祖延海和尚が、寛永17年、京都清水寺より本尊十一面千手観音をこの地に移し新清水寺を開きました。本山同様にかけ造りの舞台が造られています。
昭和30年頃までは大阪湾や淡路島が見渡せたということです。舞台から見る景色 通天閣が見えます。近松は
「道のべに清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちとまりつれ」
(新古今集)
「東路さして行く道の やがて休らう逢坂の 関の戸ざしも心して」
謡曲(熊野)
などを引用して作文しています。
浄瑠璃の人形が煙草を吸い煙をくゆらすのも当時の人形のからくり仕掛けで人々を楽しませたということです。<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>
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<四天王寺 第24番 万燈院>
http://pilgrimari.exblog.jp/3223698/
2006-02-19T22:20:00+09:00
2018-03-09T11:58:41+09:00
2006-02-19T22:20:16+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
講堂に詣でて西門へ向かうと昼間でもあかあかと照らされた万燈院へ至ります。千手観音を本尊として祀っています。この像に祈願してその願が成就したものは紙子(かみこ)を供えるならわしから、紙子仏(かみこほとけ)と言いました。
万燈を点じて仏に供養する法会を万燈会といい、十千の灯明を燈て衆罪を懺悔すると言う「菩薩蔵経」の文がありますが古来から行われている行事で四天王寺において参詣絶えることなく、常時滅罪祈願の灯火が輝いています。
この堂から西門をへて西へ石畳を行くと石鳥居に出ます。はじめは木で作られ、その時代、紀貫之や藤原定家が和歌を鳥居に落書きしていたと言います。
「水ぐきの跡ははかなく残るとも忘れずしのぶ人やなからん」貫之
「水ぐきの跡ははかなく成りにけり忘れずしのぶ人はあれども」定家
鎌倉時代の忍性上人が石造りに改めました。貧人病者を救う建物を営み庶民の尊敬を集めた傑僧です。
この鳥居の額に「釈迦如来、転法輪所、当極楽土、東門中心」の十六文字が書かれていて名高い門です。慈鎮和尚も
「此国の難波の浦の大寺の額の銘こそまことなりけり」と読まれています。
この地の西の海こそ西方浄土と考えれば、この門は極楽の東門となります。
*この現在の四天王寺の万燈院の立て札に書かれている文章の中の紙衣の表記と上記に説明している紙子と違っていますが、あくまで「大坂三十三観音巡礼 文 しのだじゅんいち氏」を参考引用しました。
<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>]]>
< 四天王寺 第22番 金堂〜 第23番 講堂>
http://pilgrimari.exblog.jp/3219515/
2006-02-19T00:27:00+09:00
2018-03-09T12:39:49+09:00
2006-02-19T00:27:23+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
経堂にて経を誦む酉の時刻(午後6時)を告げる鐘の音がご〜んと聞こえ、その音をききながら金堂に向かいます。鐘声は、本来一切悪道の諸苦を止める事が出来、煩悩の眠りをさます有り難い響きですが、お初の耳には恋人を待ちこがれる宵や、逢瀬の一夜の明けたことを、心なく無情にも告げる鐘の声と聞こえます。
近松は「新古今集」の「待つ宵に更けゆく鐘の声きけばあかぬ別れの鳥はものかは」という歌をきかして作文をしています。古来、鶯のことを経よむ鳥と言っています。
金堂はこの四天王寺の本堂であり、本尊は如意輪観音であります。
太子の前身は百済国の聖明王で如意輪の化身で、その子、威徳王が父王の崩じ給うを深く歎いてこの如意輪観音像を造らせ父王在世のごとく孝養していましたが日本に聖明王再誕なされたと知って百済国より渡されたと言う由来があります。
講堂
「鐘の声 こん 金堂に講堂や」と近松は「こ」の頭韻を巧みにふんで二十三番の札所講堂を記述しています。
仁王門に入って五重塔、金堂、そして講堂と直列する伽藍配置になっていて、聖徳太子がこの御堂にて諸経を講じられたので講法堂とも言い、阿弥陀仏のほか観音菩薩、勢至菩薩、虚空蔵菩薩、四天王、誕生仏を安置しています。古来から貴賎の信仰を集めたお寺だけに他にも多くの名所もあります。
亀井堂は供養のための経木を流す亀井の水があり、水は湧き水で金堂の中の青龍池から流れ出ると言われています。またこの伽藍の仁王門前に礼拝石があって熊野権現の遥拝をこの石の上にておこなえば熊野詣でを行ったと同様のご利益があると言われています。
亀井堂<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>]]>
< 四天王寺 第20番六時堂〜第21番経堂>
http://pilgrimari.exblog.jp/3214686/
2006-02-18T00:13:00+09:00
2018-03-09T11:59:53+09:00
2006-02-18T00:13:57+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
℡06-6771-0066
(六時堂)
さらに道を南へ進むとはやくも四天王寺へ着きます。この広壮な堂宇の一番北にある六時堂へ到着します。
聖徳太子が創建された古刹には名所古蹟が多く蓮池の上に立つ石舞台として知られる舞楽の舞台直前に建つ六時堂は伝教大師の最澄草創で、比叡山の根本中堂を移した御堂でした。
ここで六時礼賛を勤めるのでその名前がつきました。
六時とは昼三時・夜三時(晨朝)・日中・日没(初夜)・中夜・後夜
この六回、仏様を礼拝して讃歎する行を行います。本尊は薬師如来ですが、千手観音も祀られここが20番となっています。
聖徳太子堂 石舞台の蓮葉を見ながら回廊で囲まれた金堂・五重塔などの伽藍の東側を行くと聖徳太子堂の一郭に着きます。
門を入ってまっすぐ左に、次の札所経堂があります。ここには如意輪観音が祀られています。
(夢堂)
一切経七千余巻を納めて毎年3月2日に経供養を行っていました。この経供養の行事の由来は、聖徳太子が法華経を求められたがそれはただの経ではなく、太子の過去世ご自身で写された法華経でありました。そこで妹子大臣を唐の衡山にやって持ち帰らせたが、これではないと夢殿に籠らせたまい、ついに奇瑞によって、いながらその経を求められました。
(経堂)
太子没後、その経は消失したと伝えられていましたが四天王寺宝蔵に一個の古い経箱があり開いてみると一行三十四文字全部一巻の法華経でありました。
疑いもなく夢殿から消失したお経と確認して、これを供養する行事となっています。
<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>]]>
<第18番 本誓寺〜第19番 菩提寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/3209424/
2006-02-17T00:01:00+09:00
2018-03-09T12:03:15+09:00
2006-02-17T00:01:13+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
半ば以上を巡ってきましたがさらにこれから幾つ行けばいいのか
と思案しながら生玉にやってきます。本誓寺は18番、ぬかずいて私の境遇で今後いくつ生きられましょうか、どうか御守護をと懸命に祈念するお初です。
ここにも死のイメージの反映が短い文章の中にこめられています。
本誓寺のすぐ西側に生玉の蓮池が広がり、その奥に生玉明神が鎮座しています。本誓寺 大阪市天王寺区生玉町3-6 ℡06-6771-4949
拝み巡る手に持つ数珠、その数珠に繋げば最高のものとなる菩提樹の実の名にちなむ菩提寺にやってきました。
菩提寺 大阪市天王寺区生玉町4番10号 ℡06-6771-8691
<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>]]>
<第15番誓安寺〜16番 藤棚〜17番 重願寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/3206275/
2006-02-16T14:47:00+09:00
2018-03-09T12:30:41+09:00
2006-02-16T14:47:58+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
本尊は阿弥陀如来
天生年間(1573~1591)
覚蓮社心譽上人正阿順大和尚が開基
大阪市天王寺区城南寺町6-29
℡06-6761-1040
長安寺より誓安寺
上りやすなやすな
下りやちょこちょこ
上りつ下りつ谷町筋を
歩みならはず行きならはねば
所体くづれアア、はづかしの
漏りて裳すそが、はら はら はら
はつと返るをうちかき合わせ
ゆるみし帯びを引きしめ 引きしめ
しめてまつはれ藤の棚
十七番に重願寺
上り道をすなりすなり、下り道にかかるとちょこちょこ走るといった風に、上ったり下ったり谷町筋をやや後戻りして北へ歩いて行きます。
日頃外出させてもらえない遊女のお初にとって歩きなれないので時には倒れそうになりながら身なりが崩れアア恥ずかしい脛が現れ裳裾が乱れはらはらとひるがえる裾をかき合わせ緩んだ帯をなんども引き締めながら藤棚へ向かいます。
和勝院は千手観音を祀っていました。その堂の前に藤の大樹があり花の頃人々が多く集まりました。今も観音坂の名前を残していますが、観音堂は江戸時代に焼失しました。明治の案内では上寺町の西光寺に移されています。
昭和9年に西区新町北通りに和勝院が移転して存在している事がわかりました。
さらに13年11月、箕面龍安寺へ移転した事が報告されています。
重願寺は石碑だけが残っています。<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>
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<第14番 長安寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/3204097/
2006-02-16T00:44:00+09:00
2018-03-09T12:31:45+09:00
2006-02-16T00:44:01+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
また少し後戻りして菩提 成道の種を植える上寺町。
その寺々の中にある長安寺にお詣りする。このお寺は浄土宗です。
大阪市天王寺区城南寺町5-13
℡06-6761-8739<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>]]>
<第13番 遍明院>
http://pilgrimari.exblog.jp/3197557/
2006-02-14T22:23:00+09:00
2006-07-16T18:09:17+09:00
2006-02-14T22:23:17+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
月江山難波寺(なにわじ)ともいう古い寺院でここの観音堂の本尊は十一面観音、行基僧正の彫刻と伝えられています。
さらにこの仏様は源平合戦の勇士、悪七兵衞景清の護持仏でたびたび弓箭の難をのがれ、捕われて頼朝の命令で首を切られたとき清水観音が身代わりになって命を助けられたといいます。
そうした観音様のご加護をしばしば蒙った景清の守り本尊と伝えられていました。この寺院は現在は近鉄線の開通拡張のため生野区巽北1丁目に移転しています。
作者近松門左衛門
古浄瑠璃、歌舞伎の演目「出世景清」
・・・・・ 観音様が身代わりになったくだりを・・・・・・
4段目 六波羅新牢の場
景清は、体がやっと入るほどの小さい頑丈な牢に入れられ手かせ足かせをしたまま観音経を唱え続けます。小野姫は釈放され、近くに宿をとって景清の世話をしますが、一方、阿古屋は景清が牢に入ったと聞くや子ども2人を連れて牢屋を訪ね許しを乞います。
しかし、いかほど謝っても景清の怒りはとけずとうとう景清の面前で子ども2人を殺害し、自分も自害し果てます。
そこに姿を見せた伊庭十蔵が、景清をののしり、怒り狂った景清は力任せに手かせ足かせをバラバラに解いて、十蔵を胴の真中から二つに裂いて殺してしまいます。
五段目 巨椋堤の場・三条縄手の場・清水寺轟坊の場
捕えた景清を処刑して安心した頼朝は大仏供養のため奈良に向いますが、重忠が駆けつけてきて景清がまだ生きているといいます。
頼朝は確かめるため京に向います。
頼朝は自分の目で景清の首を検分し、みんなもよくよく見た途端、景清の首が千手観音の首に変わって驚いているところに清水寺の僧がかけつけ、観音様の首がなくなっていることを知らせます。 信じられない現象に驚いた頼朝は、景清を呼び出して
「お前の体には観音様が入れ替わっておられるので、二度と死刑にはできぬ」
と罪を許します。
ところが頼朝が座を立とうとするとやにわに景清が刀を抜いて斬ってかかり、制止されて初めて我に返った景清は
「この両目があるせいだ」
と、両方の目を抉り出し日向の国に向かいます。
<挿し絵は、景清牢破りの図 古浄瑠璃の絵入り本「景清」から>
<参考資料 大坂三十三所観音巡り 作品紹介 出世景清より引用>
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<第12番 慶伝寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/3192573/
2006-02-13T23:46:00+09:00
2018-03-09T12:42:39+09:00
2006-02-13T23:46:53+09:00
ro-shin
大坂三十三観音
興徳寺から慶伝寺まで隣接する六ヶ寺の前を南へ歩んで行きます。
真田山の東の寺町筋へ、この辺りは高台になっていて眺望は四方にききます。
とりわけ西の方角がすばらしく舟の行き交う深海を見ていると流行歌の一節が口ずさまれます。「♪ありし辛さにこりずに通ふ、土手の霜風身にしみじみと・・・色に凍えて死なふなら、しんぞこの身はなり次第」目の前の景色に置き換えれば「♪汝の淡(泡)路に消えずも通う。沖の潮風。身にしむカモメ。お前も無情の煙にむせぶ。色にこがれて死なうなら、しんぞこの身はなり次第」 お初の辛い色恋を煙波をかき分けて飛ぶカモメにたとえて歌う。
恋に焦がれて神かけて誓う、この身はどうなってもよいわいな。と・・・・
小橋にあった火葬場の無情の煙をもきかせての表現ですがそのイメージは暗い。
ふと我にかえって、さて本当によい景色の慶伝寺よと、この観音堂に本尊弘法大師手造という正観音を伏し拝みます。
所在地 大阪市天王寺区餌差町6-31
℡ 06-6761-4277
<参考資料 大坂三十三所観音巡り 曾根崎心中 松平進 編>]]>
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