Pilgrim 東西南北巡礼記 :大阪市内の神社仏閣
2021-06-21T16:20:08+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
真宗興正派 西宝寺
http://pilgrimari.exblog.jp/241057684/
2021-06-21T16:06:00+09:00
2021-06-21T16:20:08+09:00
2021-06-21T16:06:50+09:00
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大阪市内の神社仏閣
私がいいなと思った言葉です。
写真 ro-shin]]>
どんどろ大師 善福寺
http://pilgrimari.exblog.jp/237967219/
2017-11-09T11:36:00+09:00
2018-02-17T22:48:09+09:00
2017-11-09T11:36:32+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
人形浄瑠璃 傾城(けいせい)阿波の鳴門 巡礼歌の段 阿波の徳島藩玉木家の若殿が高尾という傾城(美人)に溺れているのを幸いに、小野田郡兵衛という悪臣がお家横領を企てています。この騒動のさなか、家老桜井主膳は預かっていた玉木家の重宝・国次の刀が何者かに盗まれます。桜井主膳は元家臣の十郎兵衛に刀をさがすように頼みます。
十郎兵衛と妻のお弓は娘のつるを祖母に預け大阪へ出てさがしはじめますが、その方法は名前を「銀十郎」と変え盗賊の仲間になり質屋などの倉に入り探すのでした。
ある日、お弓が家で針仕事をしていると門口に巡礼姿の女の子が立っています。女の子は「国は淡路で父の名は十郎兵衛、母はお弓と申します」お弓は疑いもなくわが子と知りますが、ここで親子と名乗ればおつるもいっしょに捕われるかもしれないと、心を鬼にして国に返します。おつるは泣く泣く遠ざかって行きますが、お弓はあきらめきれず後を追います。
入れ違いにおつるを伴って帰ってきたのは十郎兵衛。わが子とは知らずおつるが金を持っているのに目を付けてその金を貸してくれと頼み込むが、おびえたおつるが声を上げたのであわてて口をふさいだ。おつるは窒息して死んでしまいます。そこへおつるを見失ったお弓が帰ってきます。十郎兵衛はわが子を殺してしまったことを知ると後悔の涙にむせぶのでした。せまってくる追手を追い払いおつるの死骸もろとも家に火をつけて、夫婦は何処ともなく落ちのびて行った。 当寺は1752年3月高野山岩本院法資法道が1615年の大阪夏の陣の戦死者を弔うために弘法大師を本尊として開創されました。 1834年徳川四天王の一人、徳川家康の家臣、大老土井大炊頭(どいおおいのかみ)利勝の孫の土井大炊頭利位が、大阪城代を命じられて大阪赴任の折、玉造の地に屋敷をかまえ、この弘法大師に深く帰依されました。このことから「土井殿のお大師様」が「どいどん」〜「どんどろ」と転訛していったといわれています。その後明治時代に入るまでは、鏡如庵大師堂とよばれ、多くの信仰を集めることになりました。
この「どんどろ大師」は近松半二作の浄瑠璃「傾城阿波鳴門」舞台になったことで有名に・・・しかし、この物語は阿波の国も舞台になっていて、讃岐地方の方言で雷のことを「どんどろ」と呼ぶことから、「どんどろ大師」の語源は、土井殿がなまったものではないと言う説もあります。
ところが明治の廃仏棄釈の影響で、檀家をもたない信者寺である『どんどろ大師」は存在が危ぶまれることとなりました。廃仏毀釈では檀家をもたない寺は認められないという決まりがあったそうです。そのため、大阪の北の端、豊能郡東能勢村木代という地区にあった「善福寺」が、檀家ごとこの地に移転されました。その結果「どんどろ大師善福寺」となったのです。<勝軍地蔵尊>
(地蔵菩薩のひとつ。これに念ずれば戦いに勝ち、宿業・飢饉などを免れるといわれ、鎌倉時代以降に武家に信仰された。甲冑を身につけ、武器を持った姿で表す。)いつも見るお地蔵さんとは違っていて、大きくて勇ましいお姿をしています。
参考引用掲載 阿波人形座HPほか
写真 ro-shin
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あびこ観音 吾彦山 大聖観音寺
http://pilgrimari.exblog.jp/22351929/
2016-02-02T17:02:00+09:00
2018-02-23T10:30:46+09:00
2016-02-02T17:02:44+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
厄除開運聖観世音菩薩の縁起 寺伝によると、第四十五代聖武天皇が厄年にあたって重い病気にかかられた。国中をあげて病気平癒を願い、名医、貴薬を求めて手を尽くされたが、回復のしるしがなくお助けを願うより手段がないと思われた天平十年二月初午の夜、天皇は気品のある可愛い童子の夢を見た。
「この都から西南の方角の山の中に滝があり、そこに竜王が世にも尊い仏さまの尊像を捧持して、この像を拝む者は病気はもとより一切の厄難を逃れることができる。この尊像を請けて帰り宮中でおまつりするように」とのことであった。
天皇は不思議に思われて行基に夢の話をされ、行基は天皇より勅命を賜り西南の方角に道をとり山中にたどり着いた。
ところが人里はなれた山の中に思いもよらず都風の童子がひとりで遊んでいた。
「この山中に滝がありますか。そして何か変わったことはありませんか」と童子にたずねると、童子の答えは天皇が見た夢の話のとおりだった。話し終わるや童子の姿はかき消すように見えなくなった。
これに力を得た行基は滝のほとりの石の上にすわり、一心不乱に竜王出現の祈願をすること三日三夜に及んだ。あたかも二の午の日、今まで晴れ渡っていた大空が俄にかき曇り、天地無明の闇となり、大地は震い、樹々は物すさまじく揺れ騒いだ。
その時、突然、滝の中から一筋の光明が射したと、見る間に激浪が立ち、昼のように明るくなった。そして、水煙の中から竜王が右の手に聖観世音の尊像を捧げて現れ、一心に祈願する行基にその尊像を授けた。
行基は「私はこの尊像をありがたく戴きますが、このお像を真にあなたから戴いたことを天皇はじめ人々に信じていただき、厄難をのぞく霊験あらたかなことを知らすために、一つ証拠を戴きたい」と竜王に申し上げた。
すると竜王は観音さまを捧げた右の手を自ら噛み切って行基に授け、そのまま水中に姿を消した。急いで都へ立ちかえり、天皇に捧げた。天皇も喜び尊像を拝すると病気もたちどころに平癒した。天皇は報恩感謝の誠をあらわすために、竜王出現の地にお寺を建てた。その後、住吉のあびこの地に移転し信仰された。戦乱のため堂宇が焼け、寺僧らは尊像および竜の手を護持して、高野山聖無動院に移した。 時移り、小田原城の落城の時、城主北条氏直と重臣東三郎左衛門は高野山に隠遁し、のち出家して三郎左衛門は快敬と称した。その住房の隣の聖無動院の尊像を日夜拝していたが、夢告により、かってあびこに在った霊像であることを知り、ご本尊をもらい受けてあびこの地に寺を再興し、聖観音像は旧に復することになった。
のち、大坂の陣の際、徳川家康は真田の軍勢に本陣を襲われかろうじてあびこの寺にかくまわれて難を逃れた。その時の住持が快敬だった。
快敬(東三郎左衛門)は家康が竹千代として今川邸の人質となっていた時、何かと世話をした縁があった。のちに家康は、その子(東助左衛門)を召出して駿府の勤番としていた関係もあり、この観音のために堂塔を寄進して寺観を整えた。その後二条城、そして江戸入府の時、この観音像を移して、赤羽根円明院に安置、信仰した。
元和二年、東助左衛門は家康の子頼宣にしたがって紀州徳川家に移り忠勤をはげみ、のち家督をその子(東仁左衛門)にゆずって所領に隠棲し出家して盛長と名乗り、父快敬の遷化のあとあびこ山を継いだ。
寛永十七年、盛長は家康の二十五回忌法要に招かれて参列の際、紀州候頼宣を通して家光に円明院に移されていた観音像のあびこ山への帰山を懇請して許され、本元の地に安置されることとなった。
円山応挙の写生図巻にあびこの珍しい竜の手の写生もあり、その縁起の不思議さとともに有名であったことがわかる。
不動明王像
愛染明王像
観音宗総本山 大聖観音寺
〒番号558-0014 大阪市住吉区我孫子4丁目1-20
℡06-6691-3578
参考引用掲載 大聖観音寺パンフレット
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《江口の里》 瑞光寺の鯨骨橋
http://pilgrimari.exblog.jp/7965201/
2009-02-17T13:28:00+09:00
2018-03-03T18:22:42+09:00
2009-02-17T13:29:23+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
江口の君堂から上新庄駅へ戻る途中、瑞光通り二丁目に、通りの名の元になった「瑞光寺」があります。
寺伝によると聖徳太子の建立で、その後火災で衰退しましたが寛永二十年(1643)に復興されました。その頃の寺名は指月寺と呼ばれていましたが現在の名前に改められたのは亨保十四年(1729)境内に鯨の骨を用いた《雪鯨橋》があることで知られています。
宝暦六年(1756)当時の住職潭住が捕鯨で有名な南紀太地裏に行脚した時、数年来の不漁で困っていた漁民たちが豊魚の祈願を嘆願して、禅師が祈願したところやがて鯨の大群が押し寄せて、村は久しぶりに大漁に湧きました。 その霊験を喜んだ漁民たちが黄金三十両、鯨骨十八本を寺に贈ったので、鯨の冥福を祈るためにその鯨骨で造ったのが《雪鯨橋》だと言われています。
『摂津名所図会』には「初めは橋板とともに鯨だったが、近き頃朽ち損じて今は石橋となる。高欄の左右は鯨の腮(あぎと・あご)なり。その尺丈余(長さは3m余)色黒く、難波一州の名奇(めずらしいもの)なり」と記されています。
戦災で堂塔は焼失し、鯨の橋も失いましたがその後も橋は太地町から寄贈を受けて定期的に架け直されてきました。
本尊の厄除け観音像は、聖徳太子の自作と伝えられています。
(ミンク鯨の扇型の肩甲骨)
参考引用掲載 大阪を歩く
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【江口の里】 江口の君堂 寂光寺
http://pilgrimari.exblog.jp/7956580/
2009-02-15T16:47:00+09:00
2018-03-03T18:23:32+09:00
2009-02-15T16:49:00+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
淀川と神崎川、安威川にはさまれた東淀川区は“川の町”です。
その北東の南江口一帯は古く「江口の里」と呼ばれていました。江口は淀川が神崎川へ入る分流点で、地名は”江(川)”の”口”に由来します。
神崎川は旧名を「見国川」といい、もともとは安威川の下流に当たる水路でした。延暦4年(785)古代から水上交通の拠点だった淀川の下流に土砂が堆積してその役割が果たせなくなったため、淀川とこの見国川を結ぶ新川の開削が行なわれ、以後、”江口”が都と山陽、西海、南海道方面への交通の要所としての位置を占めるようになりました。
特に平安時代以降、熊野、高野山や四天王寺、住吉社への参詣が盛んになり、また貴族や権門寺社などの荘園が発展して人と物質の交流・輸送が頻繁になってくると、往来の途中、江口に宿泊する人が急増し、その宿泊客を対象として多くの遊女が集まり神崎(現在尼崎)などと並んで”遊里”としても繁栄し「天下第一の楽地なり」と言われるほど賑わいました。江口の遊女は公家たちを相手としたので教養が深く、和歌や歌舞音曲などに秀でた者も多かったそうです。
《江口の君堂 寂光寺》
阪急京都線上新庄駅で降りて、バス(井高野方面・江口君堂前)で下車、淀川の堤防の手前にあります。寂光寺は元久二年(1205)光相比丘尼の開創と伝えられます。俗に「江口の君堂」とも呼ばれ、西行法師と遊女”江口の君”の有名な伝説が残っています。
寺伝によると、江口の君は平資盛の娘・妙之前で、平家没落のあと江口に住む乳母をたよってこの地を訪れ、遊女に身を落としました。
仁安二年(1157)の秋の夕暮れ、四天王寺への参詣の途中、この江口の里を通りかかった西行法師が、折悪しく雨にあって一軒の伏屋に立ち寄って仮の宿を頼んだところ、出てきた妙(遊女江口の君)に断られます。そこで仕方なく立ち去りかけた西行が「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」と詠むと、妙は「世をいとふ人とし聞けば仮の宿に 心を止むなと思ふばかりぞ」と歌を返した。そしてこの歌が縁となって、二人は長雨の一夜を語り明かしたと言われます。 それからまもなくして、妙は発心して二十五歳の若さにして黒髪をそり落として仏門に入り、尼僧(光相比丘尼)となりました。彼女が庵を結んだのがこの寂光寺の始まりと言われ、境内に西行塚、君塚、歌塚などがあります。
ちなみに、この西行と妙之前の出会いを題材にしたのが能の「江口」です。
参考引用掲載 大阪を歩く
写真 ro-shin]]>
【崇禅寺駅】 崇禅寺・中島惣社
http://pilgrimari.exblog.jp/7948407/
2009-02-13T20:54:00+09:00
2018-03-03T18:24:54+09:00
2009-02-13T20:55:40+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
【崇禅寺】
柴島浄水場の北側、阪急京都線の「崇禅寺駅」から北西へ4分ほどの東中島町5丁目に、浄瑠璃「敵討ち崇禅寺馬場」の舞台となった崇禅寺があります。
嘉吉元年(1441)、足利六代将軍義教を謀殺して、「嘉吉の乱」を起こした播磨守護赤松満裕・教康父子が当時満裕の支配地だった摂津国中島郡へ逃れ、古くからこの地にあった観音堂へ義教の首を埋葬しました。
嘉吉の乱の二ヶ月半後、満裕父子の敗北によって落着、中島郡は恩賞として細川持賢に与えられましたが嘉吉二年(1442)に義教の子、義勝が持賢に命じて義教の菩提追善のために観音堂の所に建立したのが崇禅寺と言われています。
本尊の釈迦無如来は伝教大師(最澄)の作と伝えられ境内の墓地には「義教の首塚」をはじめ細川忠興夫人「ガラシャ玉子の墓」や崇禅寺馬場で仇に返り討ちされた「遠城兄弟の墓」があります。崇禅寺馬場は、崇禅寺とその西にある「中島惣社」の間に広がっていた三町ほどの松原の俗称です。豊臣秀吉時代の馬場と伝えられます。正徳五年(1715)この馬場で、大和郡山藩士の遠城兄弟が、彼らの異母弟を殺害して出奔中の同藩士生田伝八郎に謀られ返り討ちにされるという事件がありました。この事件を竹田小出雲・近松半二が浄瑠璃に仕立てて、宝暦八年(1758)に竹本座で上演し、大評判をとったのが名作「敵討崇禅寺馬場」です。また明治維新で設置された摂津県・豊崎県、県庁所在地として五ヶ月間、このお寺が県庁とされていました。
【中島惣社】
崇禅寺の西にあって、宇賀御魂大神・大市比女神・受保大神を祀っています。
建年代は不詳ですが、孝徳天皇が長柄豊碕宮に遷都の時五穀豊穣を当社に祈願し神領を寄進したと伝えられ古くは「稲荷社」と呼ばれていました。
参考引用掲載 大阪を歩く
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【柴島】 法華寺 ・ 柴島神社
http://pilgrimari.exblog.jp/7940236/
2009-02-11T23:52:00+09:00
2018-03-03T18:32:42+09:00
2009-02-11T23:53:17+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
大阪には、立売堀=いたちぼり、十三=じゅうそう、放出=はなてん、遠里小野=おりおの、新喜多=しぎた、茨田=まった、杭全=くまた、など難読地名が多い。
淀川と神崎川に挟まれた東淀川区にある「柴島(くにじま)」も詠めない地名の一つです。
地名の由来には諸説があって古くは難波八十島の一つ莖島(くぬぎじま)がなまって柴島となったと言う説と鎌倉時代に洪水で柴の束に乗った小さな祠が流れ着いたことから起こったと言う説などがあります。
【法華寺】
ここ柴島は古くから開かれた土地で奈良時代の天平13年聖武天皇の勅によって「摂津国分寺尼寺」が創建されました。平安時代には東宮御所の「柴島荘」があり、室町時代には細川晴賢の居城あり、江戸時代にはこの辺りは、淀川の流れを利用して晒でも有名です。
法華寺は摂津国分寺尼寺の後身で古くは法華滅罪寺とよばれていました。
【柴島神社】
法華寺から5分ほど歩くと柴島神社があります。柴島の地名のひとつの洪水で柴の束に乗った小さな祠が流れ着いた祠を祀った神社です。
参考引用掲載 大阪を歩く
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【四天王寺】 四天王寺庚申堂
http://pilgrimari.exblog.jp/7933011/
2009-02-10T14:35:00+09:00
2018-03-03T18:34:18+09:00
2009-02-10T14:36:57+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
南大門から南へ「庚申街道」と呼ばれる道を少し行くと、昔から京都の八坂庚申堂・東京下谷の喜蔵院の庚申堂とともに「日本三庚申」として知られる「四天王寺庚申堂」があります。
庚申信仰は中国の道教に起源を持つ信仰で人間の体内には三戸(さんし)、上戸・中戸・下戸と呼ばれる三匹の虫が潜み、庚申の日(年六回)に人間が眠っている間に抜け出してその人の罪を天帝に報告します。罪が35000あるとその人は死んでしまいますので、その夜は眠らずに身を慎んで過ごさなければならないと言われています。平安時代に日本に伝わり、貴族の間で徹夜で話したり詩歌を作ったりして過ごす「守庚申」(しゅこうしん)という風習が起こりました。 室町時代には庶民にも普及して三戸から身を守ってもらう神仏(庚申尊)を祀るようになります。またその夜はお堂に集まって語り明かす「庚申講」という組織も生まれます。 江戸時代からは「話は庚申の夜」という諺ができるほどになりました。この夜に夫婦が同衾すると生まれた子供は泥棒になるといわれ、ちなみに天下の大泥棒の石川五右衛門も、両親が庚申の夜に同衾したからだという伝説も生まれています。 四天王寺の庚申堂は日本で最初に庚申が現れた地といわれ、縁起によると、大宝元年(701)正月七日庚申の日、豪範僧都が疫病に苦しむ多くの人々を救わんと一心に天に祈った所、帝釈天のお使いとして童子が出現し除災無病の霊験を示され以来1300年庚申の日及び前日(宵庚申)に本尊に祈れば必ず一願が叶うと尊崇されています。
この本尊は青面金剛童子(秘仏)で拝観することはできませんが、全身は青く、手は4本でそれぞれの手に、三股叉・棒・一輪・羂索を持ち大きな口には犬のような牙が突き出し眼は赤く三眼、頭髪は火炎のように聳え、頂きにはドクロと大蛇をまとう恐ろしい姿をしているとか・・・
この恐ろしい形相で人間に巣食う三戸から身を守り、無病息災・除災無難を叶えてくれるといわれます。 境内には三猿(見ざる、聞かざる、言わざる)祀るお堂や石造があります。これは庚申の申に通じるとして庚申尊の神の使いとされたことに由来します。庚申の縁日には三猿堂前で二体の猿の木像で加持が行なわれます。痛い所をこの申の木像で撫でてもらうと「病いに勝る」「魔も去る」といいます。境内には「北向きこんにゃく(北を向いて黙って食べる厄落とし)」の店などがでて賑わいます。庚申の日に出かけてみて下さい。
庚申堂と四天王寺南大門の間に「竹本義太夫」のお墓があります。
参考引用掲載 大阪を歩く
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【四天王寺】 三面大黒天
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2009-02-08T23:08:00+09:00
2018-03-09T09:17:32+09:00
2009-02-08T23:08:28+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
福の神トリオの顔を持つ三面大黒天
六時堂の裏に大黒堂があります。本尊は秘仏で一体の像の正面に大黒天、右側に毘沙門天、左側に弁財天の顔を持つ「三面大黒天」です。
大黒天はインドの戦いの神で、中国に伝わって飲食の神となり、日本では七福神の一神となりました。毘沙門天もインドの仏法の守護神・四天王寺の一神で、やはり七福神の一神。弁財天も音楽・福徳・知恵を授けるインドの女神でこれも七福神の一神です。
この三面の大黒天は、昔から子孫繁栄、福徳智慧、商売繁盛にご利益があると庶民から信仰され、江戸時代には「戎さん」をしのぐほどの信仰だったとか・・・。今も、縁日に当たる甲子の日に法要が行われています。
この日に参拝された方は小袋に七粒ずつ入れられた加持の黒豆を貰って帰り、お米と一緒に炊いて食べると健康即身になると言われています。
またお堂に吊るされている提灯にはニ本の大根が描かれていますが、これは大根が大黒天の使者である鼠の好物だからとも、あるいは女人の足を意味しているのだとも伝えられています。
参考引用掲載 大阪を歩く
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【四天王寺】 運を占うおもかる地蔵
http://pilgrimari.exblog.jp/7914720/
2009-02-06T22:55:00+09:00
2018-03-09T09:16:29+09:00
2009-02-06T22:56:46+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
亀の池の北側にある六時堂
この六時堂の「六時」は一日を昼三回、夜三回の計六回の浄土礼賛の行が行なわれたからで、正式の名前は「六時礼賛堂」といいます。当初のお堂は天台宗の開祖最澄の創建と伝えられ、比叡山根本中堂を模したといわれ、その後何度か焼失して現在のお堂は元和九年(1623)に徳川二代将軍秀忠が建立した「椎寺薬師堂」を文化八年(1811)に移築したもので重文に指定されています。
このお堂の縁側に「おもかる地蔵」と呼ばれる小さなお地蔵さんが安置されています。お地蔵さんを持ち上げた重みで願いが叶うかどうかを占うもので、軽ければ願いが叶い重ければ願いは遠いと言われます。
私も願いをこめて持ち上げてみました。思ったより軽く感じたので嬉しかったです。四天王寺へ行かれたときは試してみて下さい。
お地蔵さん自体は結構古いものらしいですが第二次大戦後にいつの間にか置いてあったそうで、占いもいつ、誰が始めたのかわからないそうです。お地蔵さんと並んで「賓頭廬さん」もおられます。 びんずるさんは釈迦仏の弟子で十六羅漢の筆頭です。もとはバラモン族の王の臣下で、出家して神通力の第一人者となりました。ところが人に神通力をつかったので仏に叱られて、西方の土地で教化するように言われ、衆生を教化したと言われています。
以来その厳しい修行は僧侶の鏡とされ、その像が僧侶たちの食堂に祀られていましたが、いつの間にかお堂の縁側に置かれ、撫で仏として、自分の治して欲しい所を撫でると治るという病気平癒の仏として人気を集めています。みんなが撫でるのでつるつる光っています。
参考引用掲載 大阪を歩く
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【四天王寺】 あの世に響く引導鐘
http://pilgrimari.exblog.jp/7903096/
2009-02-04T21:43:00+09:00
2018-03-09T09:15:43+09:00
2009-02-04T21:43:51+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
中心伽藍の北側に、亀が沢山いる「亀の池」があります。正しくは「大寺池」といい昔は蓮の花が一面に覆い「蓮池」とも呼ばれていました。
江戸時代の名所案内本の「摂津名所図会」には「夏の日の盛りには水に映して清香袂に入る」と紹介されています。それがいつしか亀の住処になり現在の俗称となっています。
その亀の池の西南端に引導鐘堂とよばれる「北鐘堂」が建っています。正式の堂名は「黄鐘楼(おおしきろう)」といいますが、この黄鐘とは雅楽など日本音楽の基本のである黄鐘調のことだとか。
黄鐘調の鐘の音は祇園精舎の鐘の音と同じ響きを持つとされ『摂津名所図会』には「無常院の鐘」と呼ばれたと記されています。そういうことから、北鐘堂の鐘はいつしか引導鐘と呼ばれ、回向する時にこの鐘を撞くと、その音はあの世まで響き極楽浄土にいるご先祖の心が安らぐと言われています。だから現在でもお彼岸には数あるお堂の中でもこの北鐘堂にお詣りする人が多いといわれています。
梵鐘は天蓋の上にあって目にすることはできませんが、その規模は総高約1.6m口径約1.2m重量約770k天蓋の中心から下りている綱を引いて天井裏の鐘を鳴らす仕組みになっています。
四天王寺には飛鳥時代に百済の味摩之(みまし)という人がもたらした技楽(呉の音楽と舞)から生まれたと言われる『天王寺雅楽』が伝わっています。
かって天王寺雅楽の楽人たちは聖徳太子の命日に催される『聖霊会舞楽大法要』などの際には、この引導鐘の音で楽の調子を合わせたといわれ、あの有名な兼好法師も『徒然草』の中で「天王寺の雅楽のみ都に恥じず」と称賛し、その優雅さの理由は「黄鐘調の鐘の音にあわせて演じているからだ」と記されています。
参考引用掲載 大阪を歩く 著者 林 豊
写真 ro-shin]]>
【四天王寺】元三(がんさん)大師はおみくじの創始者
http://pilgrimari.exblog.jp/7892886/
2009-02-02T22:42:00+09:00
2018-03-09T09:22:52+09:00
2009-02-02T22:42:10+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
大黒堂西隣の墓地に建つのが元三大師堂です。元三大師は比叡山中興の祖として知られる第十八代天台座主良源のことで、元旦三日に入寂したことからこの名で呼ばれるようになりました。おみくじの創始者といわれ、また災厄を祓うため自ら夜叉と化したと言う伝説も残っています。
大阪ではこのお堂が信仰の中心だったと伝えられ今では「入試合格祈願」で有名です。 当初の堂の創建年代は未詳ですが現在のものは元和四年(1618)に徳川二代将軍秀忠が再建したもので重文に指定されています。三間四方、寄棟造りの堂の内部は畳敷きで、元三大師を中央に右に弘法大師、左に普賢菩薩が祀られています。
多くの方がお百度石と本堂の間を祈りながら歩いておられました。
参考引用掲載 大阪を歩く
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【四天王寺】 夜遊びが過ぎた猫
http://pilgrimari.exblog.jp/7877076/
2009-01-30T21:15:00+09:00
2018-03-09T09:23:46+09:00
2009-01-30T21:15:05+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
【聖霊院】
番匠堂の東向かいの塀に囲まれた伽藍は、聖徳太子を祀る「聖霊院」です。聖霊院には、太子二歳像や十六才孝養像を祀る拝殿と八角屋根の上に鳳凰(聖徳太子)が玉輿(釈迦牟尼仏)を抱いている様を宝珠として掲げた円形の建物に太子四十九歳像(秘仏)を祀る奥殿や、絵堂、経堂、物部守屋を祀る守屋社などが建っています。
この聖霊院には二つの門があって正面が「寅の門」上欄に虎の彫り物があり、もう一つは番匠堂の真向かいにある「猫の門」で猫の彫り物があります。【虎の門】
寅の門の虎は悪いものが入ってこないように番をしています。
【猫の門】
猫の門の猫は何の番をしているかというと、聖霊院にある経堂のお経がネズミにかじられないように見張る役目をしているそうです。
四天王寺は大坂の陣で焼けましたが、その後に徳川幕府が再建した[猫の門」の猫は、名匠の左甚五郎の作だったとか。
名匠となるとすごいもので、この猫は日光東照宮の「眠り猫」と一対になっていて、大晦日と元旦に鳴きあったと言われています。これはこれで結構なのですが、困ったことに、夜になって人がいなくなると、度々ネズミの番を放り出してミナミへ遊びに出かけたそうです。
そこで「四天王寺の猫が花街で遊び回っている」という噂に困ったお寺では、「猫の門」の猫に金網をかけて抜け出さないようにしたそうです。そのために、第二次世界大戦の空襲の時逃げ出せずに焼け死んでしまったといわれています。今の「猫の門」の猫は真面目なのか、しっかりネズミの番をしているようです。金網はかけられていません。
参考引用掲載 大阪を歩く
写真 ro-shin]]>
【四天王寺】 石神堂と番匠堂
http://pilgrimari.exblog.jp/7867885/
2009-01-28T22:07:00+09:00
2018-03-09T09:24:32+09:00
2009-01-28T22:08:19+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
[腫れ物にご利益 牛王尊]
不動堂の東向かいにある小さなお堂は、牛王尊と称する石神を祀っています。
聖徳太子が四天王寺を建立する時に、材木を曵いていた牛が倒れて石に変じたという伝説が起源と言われています。
動物慰霊のお堂で、後世、「牛が草を食う」が転じて「瘡(くさ)をとる」という信仰が生まれました。
「南無大聖牛王尊(なむだいしょうごおうそん)」と一心に唱え、手を合わせれば傷や腫れ物平癒に功徳があるそうです。
[建築の守護神 番匠太子]
不動堂のすぐ南に番匠堂があります。
このお堂は、日本における大工技術の始祖として番匠(大工)達から尊崇されている聖徳太子を祀っています。曲尺(かねじゃく)と呼ばれる直角に曲がった定規を持った可愛い聖徳太子が祀られています。
四天王寺は推古天皇元年(592)に聖徳太子が鎮護国家済世利民のご請願により創建され、その際伽藍建立に当たり百済より最新の番匠の技術を招来されたそうです。聖徳太子は七堂伽藍を建立するためにやむをえず台地の産物の命を断ってしまうので、金槌や鋸、錐などに仏性を入れて番匠器(大工道具)で「南無阿弥陀佛」の名号を書かれ大工の工事安全と伽藍の無事建立を祈ったと伝えられています。
文化国家日本の先駆けとなった四天王寺伽藍の建立は、聖徳太子並びに番匠の人々の叡智とたゆまぬ努力の賜物であり、その偉業を顕彰し、併せてあらゆる建築にたずさわる人々の守護のため、ここに番匠堂が建てられました。
参考引用掲載 大阪を歩く
写真 ro-shin]]>
【四天王寺】 竜宮城から流れる亀井の水
http://pilgrimari.exblog.jp/7858796/
2009-01-26T20:54:00+09:00
2018-03-09T09:25:24+09:00
2009-01-26T20:54:20+09:00
ro-shin
大阪市内の神社仏閣
中心伽藍の中にも龍が棲むという”龍の井戸”伝説がありますが、中央伽藍の東側の”亀井堂”にも伝説があります。亀井堂は回向を済ませた経木を流すところで、亀の形をした水盤があってその口から水が流れています。この水が”亀井の水”という霊水です。
江戸時代、狂言師の中川喜雲が書いた「京童跡追い」という本には「亀井堂の水は天竺から龍の棲む竜宮城を経て銀の樋で運ばれているから決してかれることがない」と記され、また伝承でも「金堂の地下深くに青龍の棲む深い池があってそこから流れている」と伝えています。これも龍の井戸と同様、四天王寺は荒陵池を埋めて建てたという伝承から発生したものでしょうが、昔の人は”亀井の霊水”の彼方に極楽があり、回向を済ませた経木を流せば極楽往生が叶うと考えていたようです。いったん底に沈んだ経木が浮かんでくるのを見て[これでご先祖の霊が浮かばれた」と安心されたそうです。またお堂には聖徳太子が井戸に写る自分の姿を楊の枝で描かれた自画像と伝えられる「楊枝の御影(みえ)」秘仏が安置されていて「亀井」はありがたい井戸だと信仰をあつめました。現在も多くの方が先祖供養されています。
☆ 平安時代、亀井堂に参詣した西行法師は
あさからぬ ちぎりのほどぞ くまれぬる
亀井の水に 影うつしつつ
☆ 藤原の道真の娘中宮彰子は
にごりなき 亀井の水を 結びあげて
心の塵を すすぎつるかな
と詠んでいます。
亀井堂の南隣りには近畿36不動尊巡礼霊場一番の”亀井不動堂”があります。
聖徳太子「楊枝の御影」の逸話にはつづきがあります。[聖徳太子が立ち去ろうとすると井戸から尊い声がした。見ると水面に不動明王のお姿がある。感激した太子は不動尊を石に刻んで安置された。」という。これが亀井不動の由来で本尊は不動明王です。
大勢の方が水をかけてお祈りされているのでしょう。緑の苔で覆われています。
掌に乗る大きさですが迫力満点で魔障を屈服させるという憤怒の形相で座っておられます。
参考引用掲載 大阪を歩く
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