Pilgrim 東西南北巡礼記 :近江湖北27名刹
2018-03-14T16:06:06+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
近江湖北 <第1番 大箕山 菅山寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9331972/
2009-11-30T08:51:00+09:00
2018-03-14T14:20:51+09:00
2009-11-30T08:51:15+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
かんこうの さんごうゆかし たいきざん
きくもあおぐも ともにとうとし
寛平元年(889)菅原道真公45才の時、宇多天皇の命を受けこの寺に国家の隆昌と皇位の安泰を祈願されました。この際に勅許を得て三院、四十九坊を建立。五智如来を安置して寺号を大箕山菅山寺と改められました。
菅山寺縁起によると、後嵯峨天皇の皇妃、陰明門院は、当山にて仏道に帰依し山内の景家殿で大乗経の写経や詩歌を詠じて日々を過ごされたが58才の生涯をこの地で終えられました。
境内には陰明門院と薄幸の我が子、白子皇子の墓があります。
当山の専暁上人は亀山天皇の文永年中に、遠く唐の国に渡り、諸山を巡歴し修行を積み十年余りの辛苦の末、三密の秘法を体得、後宇多天皇の建治元年(1275)帰国、菅山寺へ帰山しました。帰朝にあたり、宋版一切経七千余卷を持ち帰り菅山寺の経堂に納めました。
この一切経は慶長十八年(1613)徳川家康の強い要望によって、東京芝の増上寺に移されました。そのため菅山寺は明治時代に至るまで徳川幕府より五十石の寺領と広大な山林が与えられていました。菅山寺は隆盛寺には七十ヶ寺にも及ぶ末寺を持っていて、浅井長政、石田三成、徳川幕府の擁護もありましたが、明治以降は衰微して行きました。 しかし坂口区の人たちを中心とした厚い信仰心、文化財に対する理解と奉仕の精神によって現在に至っています。
寺伝によると道真は幼名を陰陽丸といい、余呉湖畔に住んでいた桐畑太夫の子として生まれました。6才の時、菅山寺長老・信寂坊の尊元阿闍梨のもとへ勉学修行のために入りました。五年後の斉衡二年((855)京都より、陰陽丸の叔父・菅原是善卿がこの地を訪れ、桐畑太夫と尊元和尚と是善卿とで相談のうえ非凡の才能を国のために役立たせるため、是善卿の養子として京都へ上がらせることになりました。陰陽丸11才の時でした。
学問の神として崇められる菅原道真を祀る天満宮は全国に多いが、ここ近江天満宮は道真幼少勉学の地であり、また右大臣として菅山寺を復興した縁の地として近年、合格祈願の人たちが増えています。
坂口区の表参道には積善館があり、菅山寺の仏像などを安置しています。 山門の左右にある樹齢1000年を超えるという2本の欅の巨木は、菅原道真が植えたと伝えられています。この山は、自然が守られていて、熊や鹿が出てくることもあり、行かれる方は熊が来ないように音を出しながら、決して一人では行かれないようにお願いします。
滋賀県伊香郡余呉町坂口576
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近江湖北 <第2番 久澤山 全長寺 >
http://pilgrimari.exblog.jp/9322869/
2009-11-28T20:04:00+09:00
2018-03-14T14:21:50+09:00
2009-11-28T20:04:48+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
詣できて たのむ心は 浅くとも
たすけよちかひ ふかき池原
文明元年(1469)浄土宗の僧、全長が池原村字新堂に阿弥陀如来を本尊とする一宇を建てたのが始まりとされています。
平地の中に建つ本堂はどっしりした壮大な構えで、寛政元年(1789)の建立。開山堂とともに昭和62年、滋賀県の文化財に指定されています。本堂には釈迦如来を本尊として、文殊菩薩、文殊菩薩、普賢菩薩を両脇に配した釈迦三尊を本尊としてお祀りしています。
境内の観音堂には少々珍しい馬頭観音が祀られています。
寄せ木彩色で頭上に馬頭を冠し、蓮台に立つ六臂の像です。この馬頭観世音菩薩は、もと伊香郡池原村字寺山に建っていた別所山万福寺の本尊でした。
賤ヶ岳に近いこの付近は、羽柴秀吉と柴田勝家が戦ったところです。寺の周囲の山々には当時の合戦の状況を物語るように陣地のあとが残り戦死した者の墓や塚が各所にあります。とりわけ寺の北方の林谷の砦には柴田勝家を越前に逃すため、金の御幣と馬印を掲げて身代わりとなった毛受(めんじゅ)勝助、茂左衛門兄弟がわずかな手勢で、数千の秀吉軍と戦いを繰り返し、全員が壮烈な戦士を遂げたところです。
全長寺は古くから毛受家の菩提寺であるため、今もなお供養を続けています。 種々ある観世音菩薩の中で特異なお姿の馬頭観音は馬頭明王とも言いますが明王のように憤怒の相をしているからでしょう。観世音菩薩さまも、衆生を済度されるのに威力を持って圧伏し導かなければならないときもあります。
この観音菩薩は馬が草を食べるように諸々の悪を食い尽くしたり、願主のすべての願い事を水を飲むように呑み込んで聞き届け衆生の救済に専念されるという深い誓いを頭上の馬頭を持って表しています。
また馬が迅速に駈けるように衆生の邪悪をけ散らし、悟りを成就せしめることの速やかであることを意味しています。
滋賀県伊香郡余呉町池原885 ☎529-0536
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第3番 洞壽院 護国禅寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9296407/
2009-11-24T08:44:00+09:00
2018-03-14T14:23:37+09:00
2009-11-24T08:44:52+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
塩谷は 雪の白山 峯つづき
妙理の洞に 福寿円満
この寺は越前の永平寺を開いた道元禅師の直系、能登総持寺第十一世梅山聞本を師とした恕仲天誾禅師 (じょちゅうてんぎん)の開山です。
恕仲天誾禅師は宗祖道元禅師の厳しい教えを身を以て実践し全国に二千五百の寺を建てた人で、その最初に建てた人のが洞壽院とされています。 この地は周囲を山に囲まれ清水のながれる谷間で、中国の五台山に似ているといわれ、この谷から塩泉が湧き出る事から塩谷山の山号が生まれ遷洞長寿(幽仙に移って長生きをする事)とのことで洞壽院と呼びました。
本堂内には釈迦三尊をはじめ、大日如来、開山の恕仲天誾禅師などをお祀りしています。
気がらく日暮らし(洞壽十訓)
⑴家業大事に守ってゆけば、苦情なくして気がらくな。
⑵人を眼下に見下ろすよりも人を愛すりゃ気がらくな。
⑶すぎた昔を苦にするよりも明日を楽しみゃ気がらくな。
⑷大酒大食しいさえせねば、気分よいので気がらくな。
⑸人の幸福我が幸福と、悟りさえすりゃ気がらくな。
⑹悪い事なら耳に聞いて、心聞かねば気がらくな。
⑺借りて錦を飾るよりも、借らん常着が気がらくな。
⑻結構結構でその日を越せば、家内そろって気がらくな。
⑼言いたいことをば言わずにおけば、一生敵なし気がらくな。
⑽偉い顔してつまずくよりも、道を守れば気がらくな。
滋賀県伊香郡余呉町菅並
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第4番5番 己高山 石道寺・鶏足寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9270218/
2009-11-19T14:13:00+09:00
2018-03-14T14:24:35+09:00
2009-11-19T14:13:58+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
こけふかき いしのみちでら たずねきぬ
よよにくちせぬ のりのしるしを
現在の石道寺は、参詣と維持に便利なように大正三年(1914)に改築移転したものです。移転前の石道寺はここから1kmの三谷川沿いの山間にありました。
旧石道寺と旧高尾寺の諸仏をまとめて合祀され里人が交代でお守りされています。拝観する事ができます。厨子の中には観音様が三体。真ん中が平安中期の作で欅の一本つくり、身丈173.2m重文に指定されたいます。その他、持国天、多聞天、不動明王が祀られています。
JR木ノ本駅の東方にそびえる標高923mの己高山(こだかみやま)は、その昔山岳仏教のメッカで役行者や泰澄上人などがこの地を訪れ初期の仏教を伝えました。その後、伝教大師最澄が来られ高尾寺に留り自ら仏像を刻み堂塔を建立されました。こうしてこの地は山岳仏教の霊地として栄えて行きました。 嘉吉元年(1441)奈良興福寺の「官務牒疏」によると伊香郡の己高山五ヶ寺として、法華寺、僧坊百二、行基僧正草創、本尊薬師仏。石道寺、僧坊三十八、本尊観世音、延法上人開基。観音寺、在己高山頂、僧坊百二十、本尊観世音、泰澄開基、己高山の随一也。高尾寺、在己高山頂、僧坊十二観音寺に属す。安楽寺同山僧坊十二。右観音寺別院として飯福寺・鶏足寺・円満寺・石道寺・法華寺・安楽寺と。古代から中世にかけてこの地は実に大きな密教寺院群として隆盛をきわめていましたが、明治の廃仏毀釈で各寺院とも衰退し、飯福寺と安楽寺だけが無住ながら堂宇を残しています。
旧飯福寺(鶏足寺)と旧法華寺も同様、古橋の己高閣に引き継がれています。
滋賀県伊香郡木之本町石道 ☎0749-82-3730
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第6番 大浦 腹帯観音堂>
http://pilgrimari.exblog.jp/9254877/
2009-11-16T18:24:00+09:00
2018-03-14T14:25:18+09:00
2009-11-16T18:24:16+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
みちたりて なをいのるらん ちちははの
やすきすがたに はるびかんのん
中央に腹帯をまいた十一面観音様がおられます。この観音様は平安時代初期伝教大師が榧(かや)の一木を一本のノミで刻まれたと伝えられています。
高さ1.6m、腰回りががっちりしていてお腹が少し膨らんでいて、観音様が巻いた腹帯をいただいて妊婦のお腹に巻くと、御体満足に安産ができるところから、全国から申し込みがあります。 元亀元年姉川合戦の時、織田信長の寺院排除の際、八幡宮奥之院の観音寺が焼き払われるとき、信者の手によって寺院境内の蓮池に観音像を投げ入れ難を逃れたと言われています。
その後88年の歳月が流れ、寛永三年、八幡宮の神職が夢でお告げを受け蓮池の底を探し十一面観音像を救い出しました。
滋賀県伊香郡西浅井町大浦 ☎0749-89-1121
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第7番 浄光山 等覚院 阿弥陀寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9224714/
2009-11-10T13:08:00+09:00
2018-03-14T14:27:08+09:00
2009-11-10T13:08:03+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
てをあわせ いのるこころは あみだじの
みだんのほんがん ただしんじつつ
時宗の念仏道場として
時宗とは日本浄土宗の一門として文永11年(1274)一遍が開宗しました。浄土三部経のうち特に阿弥陀経を所依とし平生を日常と心得て念仏することを旨とします。遊行、賦算、踊念仏を行います。
この阿弥陀寺はもと天台宗のお寺で、暦応元年(1338)頃から託何上人がこの地を訪れ時宗を広めて、15年後にこの阿弥陀寺を開山しました。 託何上人は近江、越前、若狭の諸国に遊行して時宗を広めて行きました。お寺は高台に建っていて、境内からの奥琵琶湖の眺めは格別です。
淳仁天皇の悲劇
菅浦は奥琵琶湖のつづら尾岬の入江を形成しているところにあって背後は少々険しい山地で、前は湖水に面していてその間と山の斜面に人々が暮らしていて、いつの頃からか「隠れ里」と呼ばれるようになりました。この菅浦には数多くの遺跡が残されています。淳仁天皇にちなんだ須賀神社、淳仁天皇舟形陵があります。天平宝字二年(758)に、皇太子が即位して淳仁天皇となり孝謙女帝のあとを継ぎます。しかし実権は依然として孝謙上皇にあって天皇は名のみでした。女性の上皇は恵美押勝を寵愛し、押勝が勢力を握っていました。
そして、僧道鏡をも寵愛し、道鏡の勢威も強くなり醜聞が外に漏れてしまいます。淳仁帝は孝謙上皇にこのことを諌めたため孝謙上皇との仲が悪くなり、また押勝は僧道鏡を憎み、かつ禍が我が身に及ぶ事を恐れ、ついに塩焼王を擁立して謀反を起こしました。
孝謙上皇は蔵下麻呂に押勝を討たせ高島において押勝は斬られ塩焼王も誅されました。淳仁天皇は押勝の後ろ盾だったとして、天皇の位を廃せられもとの大炊王として淡路の国に戻されました。これが世に言う「淡路の廃帝」ですが、淡路は淡海(びわ湖)と書き違えたものです。廃帝された淳仁天皇はこの地で亡くなられ葬られたのが舟形御陵です。
時宗の教えは私たちの人生においていかに時間を大切に生きるかが第一の教えです。
第二は、時宗の信仰する仏様は阿弥陀如来で、南無阿弥陀仏(念仏)を称える事です。念仏する事によって阿弥陀如来と一体になる事を教えています。
滋賀県西浅井町菅浦 ☎0749-89-1086
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第8番 唐喜山 赤後寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9198107/
2009-11-04T13:25:00+09:00
2018-03-14T14:28:12+09:00
2009-11-04T13:25:08+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
もうできて 汲みてしみれば おのづから
かわのながれの のりのみずかな
七本槍で名高い古戦場賤ヶ岳は琵琶湖の北の方にありますが、その南方は湖北平野です。
この平野を南北に分けるように東西に長く湧出山(ゆるぎ山)が横たわっています。小高いこの山の南面中央部の山麓にこのお寺があります。老杉古樹に囲まれ長い年月を経た重みが伝わってきます。
奈良時代の高僧行基菩薩が、願い事があって千手観音を刻み湧出山にお寺を建てて安置しました。その後伝教大師最澄が己高山で修行されていた頃この千手観音様にお参りし、大変感動して、思うところあってもう一体補いたいと聖観音様を刻んで安置しました。 建暦から貞応(1211~24)にかけて兵火にかかり寺院はすべて焼失してしまいました。村人たちは仏像を守るため土中深くに埋めました。
その後長らく仏像の在処がわからなく、たまたま僧恵秀が行脚してこの地にいたり、古老の家に泊まりました。
その時古老からずっと前から毎夜不思議な光を放っているという話を聞き、そこを彫って二体の仏像を発見しました。
恵秀はすぐに仏像のいたみを補修し昔の寺跡に寺院を建て仏像を安置しました。村人たちは大いに喜んで、唐喜山赤後寺と名付けて信仰しました。それを聞いた将軍足利尊氏公は荘園百石を寄進して天下泰平を祈願させました。
元亀年中(1570~73)に至り、織田信長が浅井長政と戦ったとき、この地方は戦乱の中におかれ、百石の荘園も寺院も失われてしまいました。しかし、観音様二体は村人たちによって難を逃れました。近年になって小堂を建て昔と変わらない霊験を得ているという事です。 近年この観音様がコロリ観音と呼ばれるようになりました。「厄を転じて利となし、私利を転じて衆利となす」ところからきています。すなわち、転利がコロリに通じ、天寿を全うした上は周囲の人にお世話にならず苦しむ事なく極楽にコロリと往生できる。そんなご利益を戴きたい庶民の素朴な願いの現れでしょう。
滋賀県伊香郡上月町唐川 ☎090-3164-7486(拝観予約)
現在は米原市大久保の伊吹山長尾寺さんが担当されているそうです。
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第9番 西野薬師堂 (充満寺所属)>
http://pilgrimari.exblog.jp/9176981/
2009-10-30T21:27:00+09:00
2018-03-14T14:28:59+09:00
2009-10-30T21:27:46+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
みたされる こころをこめて つらぬきぬ
みだのじひにて かなうねがいぞ
寺の縁起によると、伝教大師が鶏足寺創建に際し、古保利村西野の里、大字寺山と呼ばれる地に伽藍を建て自ら、薬師如来、十一面観世音の十二神将を彫刻して当山に納めたと言われています。大友皇子(天智天皇の皇子)の後裔友則卿の祈願所でした。友則卿の子孫で西野丹波守(たんばのかみ)家澄は、この寺を菩提寺として崇敬し護持につとめました。 応仁の乱の戦乱によって堂塔は荒廃し、さらに浅井氏の兵火にかかって堂宇は灰燼に帰しました。里人たちは力を合わせて仏像を救出し、仮堂を作って安置しました。お堂は焼失しましたがご本尊は難を免れて大正十五年(1926)国宝の指定を受け制度の改正によって昭和25年国の重要文化財になって現在に至っています。
薬師如来像は欅の一本造りで、頭部・躰部を通じて、内刳を全くしていません。平安時代の中頃の十世紀後半の作と言われ、作者は不詳です。
この像は薬師如来像と伝えられていますが、薬壷がなくこの時代のものとしては珍しい「お薬師さま」です。像高は159.4cm、立像。
もうひとつ、重文の十一面観音像があります。
ふっくらとして穏やかな表情、胸の隆起と腹部の肉付き、どれをとっても堂々とした重量感あふれる十一面観音像です。像高1.66cm。
滋賀県伊香郡高月町西野 ☎090-8938-6369(拝観予約)
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼 奥琵琶湖観音路パンフレット
写真 ro-shin
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近江湖北 <第10番 渡岸寺観音堂 >
http://pilgrimari.exblog.jp/9163673/
2009-10-27T22:25:00+09:00
2018-03-14T14:29:41+09:00
2009-10-27T22:25:36+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
みな人の 迷いの海は 深くとも
法の舟にて 渡す岸寺
国宝・十一面観音への信仰
湖北地方は古文化財に富み特に観音様をお祀りしているお寺が多いです。この渡岸寺の十一面観音は国宝に指定されていて、その美術的、文化財的な価値は高い。尊像は2m近い桧の一本造り。
天平時代・泰澄作の仏像と伝えられています。日本彫刻史における最高傑作。肉感的で腰を軽く左に捻った躍動的なお姿、耳トウと呼ばれる耳飾り、大きく作られた頭上面など数々の特徴を持つほか眉から鼻にかけての秀麗な線、柔らかく結ばれた美しい口元など、七体ある国宝・十一面観音像の中で最も美しいとされ、特に官能的であると表現されています。
自伝によると、天平の昔、都に疱瘡がはやり死ぬ人も多数にのぼりました。そこで聖武天皇は越前の僧泰澄上人に命じて十一面観音を刻み観音堂を建て厄除の祈願をさせたのがこの寺の始まりと言われています。その後は霊験あらたかな厄除観音として信仰を集め、桓武天皇の延歴二十年(801)には天台宗最澄が勅命を受けて七堂伽藍を建て多くの仏像を祀り大いに栄えました。
元亀元年(1570)織田信長が浅井氏を攻めたとき、この辺は戦場となり堂塔伽藍はことごとく焼失、寺領も没収されました。しかし時の住職と村人たちが力を合わせて十一面観音像を猛火を冒して助け出しましたが、安置する場所がないため、やむなく土中に埋めて難を免れ戦火がおさまると土中から掘り出したのでした。そして翌年領主井口弾正の援助を受けて一坊を建てて安置しました。
天正年間に真宗に転じ、向源寺を建てました。
滋賀県伊香郡高月町渡岸寺 ☎0749-85-2632
現在は長浜市平方町の興福山徳勝寺さんが担当されているそうです。
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼 奥琵琶湖観光連盟パンフレット
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第11番 如意輪山 小谷寺 おだにじ>
http://pilgrimari.exblog.jp/9145113/
2009-10-23T20:03:00+09:00
2018-03-14T14:30:43+09:00
2009-10-23T20:03:35+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
こほくなる おだにのしろの かたきこと
にょらいのちかい いしにたとえん
聖武天皇の神亀五年(728)に、加賀白山の開祖泰澄大師が、白山から伊吹山までの峰々に修験の道場を開きました。
小谷山には六つの坊舎が建てられましたが、その中の常楽寺が今の小谷寺です。常楽寺は応永三十三年(1426)慶春上人が荒廃していた霊場を再建し、花園天皇から如意輪山の山号を下賜されました。
永正十一年(1514)に浅井亮政公によって浅井家の祈願所となったのを期に、小谷寺と改称し繁栄しました。しかし姉川の合戦後、天正元年(1573)小谷城が落城し小谷寺も焼失しました。
天正十九年(1591)秀吉公によって再建、保護されました。 本堂には渡来仏と伝えられる小さな如意輪観音の半伽思惟像(未楽菩薩像との説もある)がお祀りしてしています。このほか室町期の勢至菩薩像、賤ヶ岳の七本槍の一人片桐旦元の念持仏といわれる十一面観音像、浅井長政とお市の念持仏の愛染明王像、養蚕の守護仏である馬鳴菩薩像(めみょうぼさつぞう)が安置されています。
信長の妹・お市のかた
織田信長の妹としてこの世に生を受け才色兼備を備えた女性でありましたが、戦国の歴史のうねりに翻弄された人でした。
まず浅井長政と政略結婚させられます。しかし長政の情愛深い人柄に包まれて幸せな日々がすぎて行き男二人、女三人の子供をもうけました。
天正元年(1573)秀吉公の攻撃によって小谷城内において父久松、翌日長政が自刃し、小谷の城は落ちました。そのときお市の方は三人の娘とともに後ろ髪を引かれる思いで城から出て、秀吉の手によって清洲城へ送られました。男の子は殺されたと言われています。時に久松公四十九歳、長政公二十九歳、お市の方に十六歳、長女ちゃちゃ姫は七歳でした。
それから十年後お市の方は三人の娘を連れて柴田勝家と再婚しました。ところが半年後賤ヶ岳の戦いが起こり勝家公は秀吉公に敗れて、北之庄で夫勝家とともに波乱の一生を閉じました。天正十一年4月24日のことでした。
このときちゃちゃは17歳に成長していたので二人の妹とともに助け出されて行きました。ちゃちゃは秀吉公の側室淀君となりました。
歴史深いところです。
滋賀県浅井郡湖北町伊部329 ☎0749-78-0257
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第12番 近江 孤篷庵 遠州寺 >
http://pilgrimari.exblog.jp/9134280/
2009-10-21T10:58:00+09:00
2018-03-14T14:31:29+09:00
2009-10-21T10:58:57+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
みほのうみ ふねをうかへて たゝよへは
あめもまたよし はれてなほよし
この寺は円恵霊通禅師(江雲和尚)を開山とし、二代目宗慶候が遠州侯の菩提と小堀家の家老や家臣の修禅ならびに菩提道場として建てたのが始まりです。
最初は承応二年(1653)に現在の墓地の北奥に建てられましたが、宝永六年(1709)三代政房侯のときに現在の位置に移転されました。その後明治維新までは法灯は維持されていましたが、維新以後は無住の寺となり朽ち果てて、伊勢湾台風の時に全滅してしまいました。昭和40年に再建され庭園も補修され二百数十年前の姿がよみがえりました。 小堀遠州は近江国坂田郡小堀村(現、長浜市)で天正七年(1579)に生まれました。父は浅井長政の家来でしたが後に秀吉の弟秀長の家来となり、秀吉没後は徳川方になり関ヶ原合戦後備中松山城の城主となりました。
慶長九年(1604)父が亡くなったので遠州は25才で父の遺領一万二千四百六十石を継ぎました。元和五年(1619)に近江国浅井郡小室城に移封され、同九年に伏見奉行に就任しました。それからは主に観月橋北詰あたりに暮らし正保四年(1647)2月6日、69歳で亡くなりました。辞世に
きのふといひ けふとくらして なすことも
なき身の夢の さむるあけぼの
と詠みました。
遠州は幼名を作助とか作介といい、成長して正一または政一と称しました。また、宗甫・転号庵・孤篷庵・大有などと号しました。
九歳の頃秀吉の茶会に給仕として出て千利休にも出会います。その後吉田織部に学び、織部の死後、遠州流を立て徳川家光の茶道指南役を下命されます。また陶芸にも書、画、歌も一流で、実に幅広い文化人でした。ここ孤篷庵で安らかに眠っています。
滋賀県長浜市上野135 ☎0749-74-2116
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第13番 寂寥山 大吉寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9119004/
2009-10-18T08:28:00+09:00
2018-03-14T14:32:38+09:00
2009-10-18T08:28:27+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
わけいりて たずねしひとの
だいきちあらた さきにりんどう
天智天皇の時代(661~71)に、近江の国愛知川に観音様に似た浮木があって、愛知川から水に流されて琵琶湖へ入ったといわれ、そして百余年がたち桓武天皇の時代(781~806)になって天皇の耳に入りました。天皇は一寺を建ててその浮木(観音様)をお祀りして天吉寺と名付けられました。
大同二年(807)の九月に大洪水があって堂宇すべてが流され観音様は対岸の高島に流れ着きました。この土地の豪族の浅井治家は、この観音様を引き上げお祀りし、この夫婦には子供がいなかったので、この観音様に願をかけて男児を授かることができました。
貞観七年(865)感謝を込めて、妻の出生地のこの地に大吉寺を建てました。
この大吉寺の縁起のいい名前にあやかってお参りも結構多いとのこと。
平安時代末期、京の都では源平の精力争いが続き、平治の乱(1159)において敗れた源頼朝は、雪のなか東国へ落ちて行きました。その時、一行からはぐれた源頼朝は、草野定康によって助けられ、一時大吉寺に難を逃れました。頼朝十三才でした。その後頼朝は鎌倉にて成人し、平家討伐で、平家を壇ノ浦に滅ぼし鎌倉幕府を開きました。
滋賀県長浜市野瀬町 ☎0749-76-1051
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第14番 神護山 醍醐寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9105523/
2009-10-15T07:33:00+09:00
2018-03-14T16:04:32+09:00
2009-10-15T07:33:07+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
弥陀仏の 世界を尋ね聞きたくば
藤の林の 寺へ参れよ
醍醐寺は奈良時代役行者によってその基盤が作られたと言われています。その後後白河天皇の御代に創建され、南北朝の時、足利尊氏兄弟が湖北で戦いを起こした際に本陣となりました。
文亀元年(1501)、紀州の新義真言宗総本山根来寺より覚遍上人という高僧がこの地に来て新義の宗風を弘め寺の再興に力を尽くし、広い寺域に坊舎四十九をかぞえる大寺院にして、大永元年(1521)卍の定紋の袈裟を残して上人は入滅しました。それゆえに卍が醍醐寺の定紋となりました。 現在に至るまでの醍醐寺は、幾多の苦難に遭い栄枯盛衰を重ねてきましたがその時々の人々は性一日努力して数多くの文化財を守ってきました。春秋の彼岸には宝物館が開館され拝観する事ができます。
その主なものは、運慶作毘沙門天立像、不動明王立像、大日如来像、弘法大師画像など百数十点を蔵しています。
滋賀県長浜市醍醐町 ☎0794-74-1776
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第15番 日出山 萩の寺 神照寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9079761/
2009-10-09T15:56:00+09:00
2018-03-14T16:05:16+09:00
2009-10-09T15:56:33+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
いじんむこ はぎのてるみち おくにます
みほとけまもる ひびのあけくれ
萩の寺と言われるほど境内には萩が沢山あります。寛平七年(895)宇田天皇の勅命を受けて本覚大師が建てたもので、この地方では珍しい真言宗智山派のお寺です。創建当時は七堂伽藍が整い、三百の坊舎を有する大寺でした。 観応二年(1351)に足利尊氏公が弟の直義公と不仲になり、近江の八相山や蒲生野で戦ったが間もなく和解が成立し兄弟がこの寺で借宿した事があります。現在の建物は江戸時代に再建されたものです。この寺は神仏混淆のなごりをとどめています。 このお寺には珍しい国宝の華籠(けこ)を蔵しています。華籠とは法会のときに散華の供養に用いる籠皿です。
正式には金銀渡透彫華籠といい文様は平安(五枚)と鎌倉(十一枚)の二種類で計十六枚です。
重文指定の荘厳具華鬘(金銀渡透彫華鬘)が十一枚。
木造半肉彫千手観音立像。漆箔像で、観音像の全面半分が光背から浮き出たようになっています。像高わずか50.5cmの子供っぽいお顔のお不動さん。もう一体はさらに小さく47.5cmで五歳児ぐらいのわんぱく盛りの童を思い浮かべるお姿。小谷城主であった浅井長政公の念持仏で当山に寄進されたものです。
本尊は金剛界大日如来と胎蔵界大日如来です。
滋賀県長浜市新庄寺町323 ☎0749-62-1629
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
近江湖北 <第16番 無為山 安楽寺>
http://pilgrimari.exblog.jp/9063185/
2009-10-06T00:04:00+09:00
2018-03-14T16:06:06+09:00
2009-10-06T00:04:17+09:00
ro-shin
近江湖北27名刹
●御詠歌
あんどして ごくらくのみち たづぬれば
みじかにおわす びわのきしべに
彦根城の藩士の井伊直孝が、井伊家菩提所竜潭寺の開山、萬亀和尚に依頼して再建されたのが現在の安楽寺です。
弘安二年(1278)九条家より無為(平和)を祈願して寺を建てられ、安楽精舎と呼ばれたのがその始まりです。ご本尊の釈迦牟尼仏は室町時代の傑作といわれ寺の再建の時に浅井家家老が納めたものです。この寺は禅寺らしく「座禅和讃」で、私たちが親しみやすい、白隠禅師の達磨画像や海北友松の水墨画、仙厓禅師の屏風などがあります。長浜駅から少し行ったところにあるサイクルレンタルで自転車を借りて、田んぼの中の道を安楽寺まで行きました。上の写真はお寺の前の道から見た景色。伊吹山が正面に見えます。とても手入れの行き届いたお寺で庭を観賞しながらお茶をいただきました。
滋賀県長浜市細江 ☎0749-72-2381
参考引用掲載 近江湖北二十七名刹巡礼
写真 ro-shin]]>
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