Pilgrim 東西南北巡礼記 :不思議奈良古代史
2013-12-10T16:58:14+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
平城京址
http://pilgrimari.exblog.jp/11788387/
2010-12-26T23:06:00+09:00
2010-12-29T19:49:39+09:00
2010-12-26T23:06:24+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
平城京朝堂院といえば、大極殿を中心として、その南に12棟の朝堂が並んでいる広大な儀式用の建物です。その北側には内裏があります。
そこの発掘が始まってからびっくりするような数々の遺物と遺構が出てきました。
平城宮跡資料館に保管されています。1200年以上も前の人間が生活していた手紙や土器、陶器など。
なかでも宮中での宴会の後、まとめて捨てられた土器の中には落書きのあるのも出ていて、「我 君 念」という字もあって「我、君を念う(おもう)」と読ませようと工夫したおもしろいのもあったそうです。 平城宮からは木簡に書かれた「慕」という字を使った恋文らしきものもでています。
最もすごい物は女が男を呪った人形(ひとがた)です。うすい板で頭、胴、両手足を簡単に作り、頭の部分にひげをはやした顔を描き、胴に人名らしい字が書いてあります。15cmの小さいものだけれど、その両目と心臓にあたるところに約5mmの木釘が打ち付けてあります。 平城京70年の間にも、聖武天皇のように山城国恭仁(くに)、近江国信楽、摂津国難波と三回も都を遷そうとした天皇がありました。しかしまた、桓武天皇平安奠都後でも平城京にとどまりたいとする一群の人もありました。その代表が桓武天皇のつぎの平城(へいぜい)天皇でした。
この天皇は平城京へ帰りたくて即位後3年で位を退き平城宮にやってきてました。
平城上皇の平城復都を支持した藤原仲成や薬子(くすこ)の謀反が露見して、平城上皇は仏門に入り天長元年(824)に亡くなるまでの14年間ここに住みました。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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生駒山と信貴山 いこまさんとしぎさん (その二)
http://pilgrimari.exblog.jp/11602627/
2010-11-22T18:48:20+09:00
2010-11-22T18:48:23+09:00
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ro-shin
不思議奈良古代史
世界一の張り子の寅
通常の張り子の寅と同じく、首がゆっくりと動いています。ここから山の上に本堂を望むことが出来ます。
生駒山系の南端に安山岩の巨岩がそびえています。そこに信貴山朝護孫子寺があります。信貴山とは磯城(しき 石城)山のことで、古代の神様の宿る磐座(いわくら)をさす語と解されます。
天智天皇の時、唐軍の来攻にそなえて百済の帰化人をつかって高安城(たかやすのき)をこの付近に築いたといわれています。大和川渓谷の出口にあたって要害の地であると同時に、この磐座の神の信仰が、西からの外敵の侵入を防ぐと古くから信じられてきたからでしょう。千手院、成福院、玉蔵院の三つの塔頭寺院があり、さまざまな神仏を祀っています。また宿坊を兼ねています。 ここに朝護孫子寺ができたのは平安時代に入って、延喜二年(902)法隆寺の明連が醍醐天皇の命で天皇の病気平癒を祈るため草庵をここで結んだことからです。「朝廟安穏、国土守護、子孫長久」朝 護 子孫の字を寺名につけたらしい。
本尊に毘沙門天をまつるので信貴山多聞天として、その信仰は外敵退散、悪魔降伏の内容を持っていました。このため河内の豪族楠木正康もふかくこれを信仰し、その申し子として生まれた楠木正成には、幼名多聞丸と名付けたくらいです。いまでもこの寺の宝物に武器の古いものが残っているのは昔の武将の信仰の結果です。 この寺には有名な平安末期の国宝「信貴山縁起絵巻物」三巻があります。本物は奈良の国立博物館に納められています。とにかく境内のあちらこちらに寅がいます。境内もきれいに整えられ、お寺の方々も親切で感じのいいお寺でした。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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生駒山と信貴山 いこまさんとしぎさん
http://pilgrimari.exblog.jp/11592164/
2010-11-20T13:35:00+09:00
2013-12-10T16:58:14+09:00
2010-11-20T13:35:26+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
「生駒の聖天さん」と呼ぶのは俗にいう宝山寺、正しくは都史陀山無動寺のことです。この寺の背後にある切り立った塩基性安山岩の巨岩(陽石)と、その下の洞窟(般若窟という陰石)の陰陽石信仰にはじまりました。昔、役行者が修行したとか弘法大師が訪れたとか言われていますが、どこにでもある伝説のようです。
ここにお寺ができたのは今から300年ほど前、延宝六年(1678)のことで、宝山湛海が大聖歓喜自在天(だいしょうかんきじざいてん)を祀って大聖無動寺といったのにはじまります。歓喜天と略称され、聖天とも言われるこのインドの神は、仏法守護神であり、人間のあらゆる罪障ををのぞく霊力を持っていると信じられました。
多くは男女合体の像で男神は魔王、女神は観音で、像頭人身、立って交合しています。ちょっとみると、両方とも像の頭をしていて男女の区別がはっきりしませんが、牙のあるのが男でないのが女だそうです。
大正七年(1918)に開通した日本最古のケーブルの宝山寺駅で降り、長い石段を上がって惣門と中門をくぐります。
境内に入ると右手に二棟の大きなお堂があり、手前が本堂です。瓦葺き重層の建物で、湛海律師作の不動明王と二童子、倶利伽羅龍王、吉祥天、薬廁抳(やくしに)などを安置しておりいつでも拝することが出来ます。
歓喜天(秘仏)は聖天堂に祀られその前の拝殿は桧皮葺き八棟造りという特色のある建物となっており本堂とは対照的な建物です。聖天信仰のメッカとして昼夜を問わず参拝者があるため、拝殿は二十四時間開放されています。毎月一日と十六日が縁日で、十六日には内陣の参拝も可能。東脇檀に奉安する厨子入の五大明王像(湛海律師作・重要文化財)も拝むことが出来ます。
(歓喜天のお話)
写真の歓喜天は大阪府八尾市教興寺558 ℡0729-41-1670
歓喜天は聖天さまとして親しまれていますがそのお姿はあまりご覧になられた事は少ないと思います。
ここ梅岩寺の歓喜天は秘仏として毎年1月1日の4時間だけ公開されています。
この写真の歓喜天は境内にお祀りされています。もともとはインドの魔性集団の主であり、人々に障害をくわえる悪者でした。
ある日の事、木陰になまめかしいお姿の天女が一人やすらいでおられました。これを見た後の歓喜天は欲望のあまり天女に抱きつこうとしました。
すると天女は「私は観音です。あなたのすさんだ心を和らげる為にやって来ました。これからおとなしくして仏法を守護しますか?衆生の為に施益しますか?そうすればあなたに身を任せましょう!それがいやならおいとまします」という・・・・。
歓喜天はその魅力に負けて和合しました。そのことから歓喜天は仏法の守護となり、夫婦和合、商売繁盛、その他多数の現世利益を約束しました。
普通、歓喜天は頭がゾウで身体が人間という特殊な姿をしています。男女二身が抱き合っている姿で「双身歓喜天」と言いますがこの写真のように一体のものもあります。歓喜天の好物は大根、酒、歓喜団(小麦粉を羊乳と蜂蜜でこねたもの)で修法には浴油供という油祈祷があります。聖天さんのお力は絶大で人が何か願掛けをしたとします。たとえば願いが叶うまで「煙草を断ちます。」
「お茶を断ちます。」「コーヒーを断ちます。」というふうに好物を断って願をかけますね。この場合途中で欲望にまけて約束を破ってしまうと、歓喜天は普通の神より激しくお怒りになるそうで、聖天さまに願をかける時はしっかりとやりとげる気持ちでお願いしましょう!そのかわり願い事をかなえる力も強いですから。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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達磨寺 (その二)
http://pilgrimari.exblog.jp/11532076/
2010-11-07T09:12:41+09:00
2010-11-07T09:12:40+09:00
2010-11-07T09:12:40+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
達磨寺は鎌倉時代に、達磨の墓といわれるものの上に三段の土塔をつくり、その上に聖徳太子と達磨大師像を安置したものを本堂として起こしました。大和は南都仏教法相宗の大本山興福寺が守護代であるくらいで、こんな禅寺ができることは珍しいのです。そのため、何回も興福寺の僧兵の迫害を受けて焼かれたらしく、足利義満が再考した達磨寺も焼き払われましたが足利義教の厳重な取り締まりでようやく安定したということです。 本堂には鎌倉時代の聖徳太子像、足利時代の達磨大師像があります。特に、達磨大師像は、南都仏師椿井集慶(つばいしゅうけい)の作、画僧周文の塗装、永享二年(1430)四月、将軍足利義教の命でつくったことが記録されています。大和ではきわめて珍しい禅寺です。古い伝説と古墳の信仰をもとにしてできた寺として一見の価値があります。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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達磨寺
http://pilgrimari.exblog.jp/11523390/
2010-11-05T09:38:28+09:00
2010-11-05T09:38:24+09:00
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ro-shin
不思議奈良古代史
大和川が大和平野に出るところに王子という町があります。関西本線と和歌山本戦の分岐点になっていて交通の要所として知られています。
王子は聖徳太子が達磨大師とあったところとして有名です。『日本書紀』の推古天皇に11年12月1日の条から記録され始めています。「太子は片岡に行かれたところ、飢え人が道のほとりに臥していました。太子が名を問いましたが答えませんでした。そこで、太子は、飲食物を与え、自分の服を脱いでその上に覆い、安らけく臥せといいました。」
翌日太子は、飢人を見に使いをやったところ既に死んでいました。そこに墓を作って葬らせましたが、数日たってまた「この間の飢人は凡人ではない。かならず真人(道教達得の士)であろう」といって墓の様子を見にやったところ棺中には死骸はなく、太子の与えた着物がたたんで棺の上に置いてありました。そこで、太子はその着物をとってもとのように着ました。
見ていた人は驚いて「聖人は聖人を知るという話はほんとうだ。」といいました。 この人がだんだん達磨大師のことだというようになってきました。
達磨太子は有名なインドの禅僧で中国に来て、北魏の孝明帝永安元年(528)に千聖寺(せんしょうじ)で死にました。ということは、聖徳太子とあったのは死後85年目ということになります。常識ではあり得ない話ですが、宗教では信じられています。そして、聖徳太子は前世において、中国で達磨大師と般若台で問答をしました。衡州の恵思大師(えしだいし)のことであり、その二人が85年目に日本で再会したというのです。それで、二人の会った王子の片岡山の傍らをも般若台といい、放光寺を一名般若寺と呼ぶようになりました。
つづきます。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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釜の口山 長岳寺
http://pilgrimari.exblog.jp/11472996/
2010-10-25T09:31:56+09:00
2010-10-25T09:31:56+09:00
2010-10-25T09:31:56+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
楼門(重文) 平安時代 日本最古の鐘楼門で、上層に鐘を吊った遺構があります。
土地の名前をとって「釜の口のお大師さん」と呼ばれて親しまれています。ここは、ちょうど昔の山ノ辺の道に面しています。
今は天理市になった柳本は小さい町ながら中世は興福寺の楊本庄のあと、江戸時代は織田長益(信長の弟有楽斎)の五男尚長一万石の陣屋のあったところでささやかな城下町です。
本堂 天明三年(1783)再建
この寺は天長元年(824)淳和天皇の勅願により弘法大師51才の時の開基ともいわれ、もとは、五重塔や僧房をあわせて42の建物があり大和神社の神宮寺として創建されました。千百七十余年、連綿と法燈を守り続けた古刹です。
しかし、何回かの退転の最後に、この寺の東北の後ろにそびえる竜王山城によった大和国民(興福寺の庄官)十市遠忠(とういちとうただ)が戦国時代の終わりに滅びる時、ともに一山焼亡したと伝えられています。その時、武士達が自刃した城の床板に無数の血痕や血の手形がついたものを、供養のため今の本堂の天井板にしてあると言われています。 土地では「釜の口の血天井」ととして有名です。老人達により怪奇な話はあったのですが、最近になって、血天井のどす黒い血痕や手形は、みな血ではなく製材のとき汗の手で持った手形が残ったものだとわかって、せっかくの怪奇伝説もだめになってしまいました。 中央が藤原時代末の様式をもつ阿弥陀如来が本尊で、定印を結んで結跏趺坐した像の胎内には「仁平元年(1151)歳次 辛羊四月始 願主憲幸」という墨書銘があります。
仁平元年という保元の乱の六年前、ようやく藤原時代も終わりに近づいて世情騒然となってきたときです。藤原氏を始め貴族や庶民も争って欣求(ごんぐ)浄土の信仰に弥陀をつくったり拝んだりして往生極楽を求めていました。阿弥陀が一番流行した最中に作られた像ということです。しかし、ここの阿弥陀仏はどの時代のどの阿弥陀仏にもない変わったものをもっています。それは目に玉眼を入れているという事です。
奈良の仏師運慶が青年時代に作った奈良山中の忍辱山円成寺の大日如来が玉眼の一番古いものだと言われてきましたが、それは長岳寺のものより十五年後の安元元年に作られたものと言われています。
本尊の両脇侍の(観音・勢至菩薩)は、八重蓮座上に半結跏したものが珍しいです。阿弥陀三尊を本尊としています。増長天と多聞天の二像はもと三輪の大御輪寺にあったものがここに移されもので、藤原時代の作品です。
本堂をでて、丘に登ると、2mを超える巨大な弥勒仏を、石板に半肉彫りに彫ったものがあります。この長岳寺辺りは古墳群に囲まれた土地で、長岳寺はその真ん中にあるお寺です。この石板の弥勒仏は石棺の蓋に彫ったものです。
室町時代に彫られた、微笑んでいる弥勒仏は珍しいです。
参考引用掲載 奈良の旅 学研 パンフレット
写真 ro-shin
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三輪明神 大神神社 (その二)
http://pilgrimari.exblog.jp/11457261/
2010-10-21T21:52:22+09:00
2010-10-21T21:52:15+09:00
2010-10-21T21:52:15+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
なでうさぎ
「なでうさぎ」は、戦前に大鳥居から少し東にある一の鳥居にあった大燈籠の一番上で卯の方(東方)、つまり三輪山を向いていました。大燈籠は戦時中に供出されましたが、「なでうさぎ」は参集殿へ移され、現在に至ります。
「なでうさぎ」を撫でると御利益があり、特に手や足などの痛みを取ってくれるといわれています。卯の年、卯の月、卯の日に神社が出来たと聞きました。実は私も卯の年の卯の月に生まれています。ご縁を感じます。
しっかりとなでて来ました。
(夫婦岩)
三輪の神と人間の女性の恋物語を伝える二つの岩が夫婦のように寄り添っています。縁結び・夫婦円満のご利益があります。
(巳の神杉)
江戸時代には「雨降杉」とあり、雨乞いの時に里の人々が集まりこの杉にお詣りをしました。いつの時代からか、杉の根本に、巳(み)さん(=蛇)が棲んでいるところから、「巳の神杉」と称せられるようになり、巳さんの好物とされる卵が、酒とともにお供えされています。
蛇は、古来より三輪の神の化身として意識されており、『日本書紀』の崇神天皇10年9月条に、「小蛇(こおろち)」と記され、『同紀』雄略天皇7年7月条 には、三輪山に登って捉えて来たのが「大蛇(おろち)」であったと伝えています。いずれも、三輪の神がその原初的形態として、蛇神であると信じられていた ことを示していると考えられます。
これは、古代の人たちが、三輪山は千古鉞(おの)を入れず鬱蒼たる森林として、何がひそんでいるかわからない不気味さを覚え、そのお山から流れ出る水によ り、種々の農作物を作り、日々の暮らしをたて、山に立ち昇る霧や雲に神意を感得して、山内に棲む蛇を直感したものであったのでしょう。
三輪の神の原初の形とされる蛇は、水神であり、雷神ともなり、農業神、五穀豊穣の神となり、やがては国の成立とともに、国家神的な神に至ったと考えることができます。
広い境内なのでじっくり巡っていただければと思います。
参考引用掲載 大神神社パンフレット HP
写真 ro-shin
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三輪明神 大神神社(おおみわじんじゃ)
http://pilgrimari.exblog.jp/11441276/
2010-10-18T14:01:01+09:00
2010-10-18T14:01:03+09:00
2010-10-18T14:01:03+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
中央から右よりの山の麓に鳥居が見えます。これは大鳥居なのです。これは二の鳥居です。普通は神社の拝殿の奥に御神体が祀られているのですが。この神社は後ろの山(三輪山)を御神体として拝んでいます。三輪の明神さんと呼ばれ親しまれています。
この神社の御神体の三輪山はおそろしく古い考古学上の遺跡です。円錐形の山の姿を古代人は多く神奈備(かんなび)と呼んで、神が降臨して住むところと思っていました。山の中にはその、神の宿る標識にあたる磐座(いわくら)が点々としてあります。この山の岩石である黒色の斑糲岩(はんれいがん)の石を1ヶ所に集めて祭祀の対象にしたらしいです。 そのうち山の麓にある辺ツ磐座(へつ)の一つと思われるものが、70年前に開墾によって破壊せられて沢山の祭器の類が発見されました。この祭器の起源は弥生式文化の時にすでに始まり奈良時代まで続いていた事が証明されました。 二の鳥居の北側にある若宮神社は、もとこの神社の本堂で、弘安八年(1285)の建築でこの付近の最古の建物です。
つづきます。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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唐子・鍵遺跡(からこ かぎいせき)
http://pilgrimari.exblog.jp/11413349/
2010-10-12T17:51:28+09:00
2010-10-12T17:51:28+09:00
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ro-shin
不思議奈良古代史
唐古・鍵遺跡は、今からおよそ2000年前に栄えた弥生時代の集落です。奈良盆地のほぼ中央部、標高48m前後の沖積地、奈良県磯城郡田原本町大字唐古および大字鍵に立地する弥生時代の環濠集落遺跡です。
遺跡は弥生時代前期〜古墳時代前期までの約600年間続きました。昭和11年の第1次調査では多量の土器・石器・木器が出土し、その成果は弥生時代研究の基礎となりました。昭和52年の第3次調査以来継続的な調査が行われ、多数の絵画土器や青銅器鋳造施設の発見など重要な成果が相次ぎ、その重要性から1999年1月27日、国の史跡に指定されました。 この建物は出土した土器に描かれていた多層式の楼閣を復元したものです。
近鉄石見駅より徒歩20分
写真 ro-shin]]>
郡山城址 (その四)
http://pilgrimari.exblog.jp/11400742/
2010-10-09T22:52:14+09:00
2010-10-09T22:52:11+09:00
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ro-shin
不思議奈良古代史
柳沢神社
郡山に最後に藩主として入った柳沢家は、さいわい、始めの頃の筒井氏や豊臣氏とは違ってたいへん文化的な家でした。そのため、郡山城下を中心として心学、国学、漢字、俳諧、茶道、花道などが栄えたし、江戸時代にはすでに金魚養殖、陶器(赤膚焼)がさかんとなりました。そのため、書画をはじめ、芸道から天文暦数までこなした柳沢家の重臣、柳沢里恭などの優れた文化人もでました。また、熊沢蕃山、荒木又右衛門がすんでいたのも郡山でした。 今の郡山城はすべての建物が取り払われわずかに、石垣と堀とかが残っています。本丸にある柳沢神社の後ろに天守台があり、大きな舟形光背をもった地蔵尊がうつ伏せに積み込まれています。「逆さ地蔵」と呼ばれ信仰されています。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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郡山城址 (その三)
http://pilgrimari.exblog.jp/11385750/
2010-10-06T21:26:26+09:00
2010-10-06T21:26:25+09:00
2010-10-06T21:26:25+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
天守台
天守台からの景色天正十九年(1591)豊臣秀長は死に養子秀保(秀長の姉の子、関白秀次の弟)があとを継ぎましたが、これも文禄四年(1595)17才で死にました。その後は豊臣家の功臣、増田長盛が二十万石の城主として入りましたが、慶長五年(1600)関ヶ原の役に大坂方に味方したので滅ぼされました。しかし、彼のときに郡山城の外堀、延長五十町十三間(約5480m)が完成して内城と城下町を包む外城とが出来上がりました。
以上のように、順慶ー秀長ー秀保ー長盛の20年間が郡山城築城期で、郡山城が完成して行くにしたがって、奈良平野の文化財はこわされていったことになります。 増田長盛が滅びると、郡山城の建物は徳川氏の手で伏見城に移されました。また、慶長十九年(1614)の大坂夏の陣のとき、郡山城はほとんど焼け残るものは社寺と城の石垣だけとなってしまいました。こうして、郡山城は慶長五年から十九年まで、ちょうど十五年間は廃城となってしまいました。
そこへ、元和元年(1615)水野日向守(みずのひゅうがのかみ)が六万石で、次いで元和五年、松平下野守(まつだいらしもつけのかみ)が二十万石で、寛永十六年(1639)本多大内記(ほんだだいないき)が十九万石というように次から次へと入れ替わっていきました。秀長時代百万石の城は縮小される事はあっても、新たに石を集めて改修する事はなくなりました。
江戸時代に入って郡山城のおかげで付近の文化財が荒らされることは、やっと一段落したのでした。そして享保九年(1724)柳沢甲斐守吉里(やなぎさわかいのかみよしさと)が十五万石の城主として甲府城から移り、明治維新までつづきました。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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郡山城址 (その二)
http://pilgrimari.exblog.jp/11377129/
2010-10-04T23:52:31+09:00
2010-10-04T23:52:30+09:00
2010-10-04T23:52:30+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
こんな文化財破壊の罰でしょうか、その翌年天正十二年八月筒井順慶は死に、そのあとを継いだ養子の筒井定次は、天正十三年には伊賀国上野に移され、慶長十三年(1608)には徳川氏から知行没収、元和元年(1615)には切腹を命ぜられ、筒井氏は滅んで行きました。
筒井定次が郡山城から上野城へ移ったあと、郡山城へ入ったのは豊臣秀吉の弟で大和大納言といわれた豊臣秀長でした。彼は但馬国出石(いずし)から郡山に転封して、大和、紀伊、和泉三国百万石の所領を与えられ、郡山は大阪城の後背となりました。
その入城の日天正十三年九月三日には、兄の秀吉はわざわざ弟秀長を伴って、兵5000人を率いて堂々と郡山に入ってきました。
これから郡山城は第二期の拡張工事を行う事になります。紀伊国の根来寺の大門を郡山まで運んで城門にしたり、奈良の春日大社境内の水屋川(みやがわ)の大石を郡山に運んだり奈良町の家々に夫役(ぶやく)を課して、ごろた石を郡山に運ばせたりしました。多門院はじめ、寺々の礎石、庭石まで大小ことごとく車で徴発したのです。多門院日記には「当山内の大小の石ことごとくもって郡山へ車にて取る。あさまし、あさまし」と書いてあります。
さらに、秀長は奈良市中でのいっさいの商行為を禁止し、すべての商人を郡山の城下に集めました。郡山繁栄のため大和平野の南にある多武峰妙楽寺(とうのみね)今の談山神社(たんざん)を強制的に郡山に移したりしました。なにぶんにも大阪に次ぐ大都市を作り百万石の城を築く方針であったので、従来の大和の秩序は次第に崩れて行きました。
続きます。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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郡山城址 (その一)
http://pilgrimari.exblog.jp/11360126/
2010-10-01T14:40:00+09:00
2010-10-01T22:48:46+09:00
2010-10-01T14:40:53+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
豊臣秀吉の弟、大和大納言豊臣秀長の百万石の城址です。このお城の天守台を中心としてその石垣の大部分が天平時代の宮殿か寺院の礎石を使っています。
これだけの文化財が現地から消えて、一武将の城郭に使われたこの犯人は誰かというと、どうも洞ケ峠の悪名を残した筒井順慶であるらしい。筒井順慶は織田信長に利用せられて大和の戦国大名を制圧し、その本拠、筒井城(今の郡山市、郡山城の西南)から、今の郡山城の地にあった東大寺領薬園庄の武士、筒井宮内、少輔(しょうゆう)の居館の地(すでに筒井氏の支城になっていた)に移ったのが天正6,7年の頃でした。 筒井順慶が正式にこの城に入ったのは天正七年11月12日でしたが、この年の8月には奈良の北にあった松永久秀の多門山城をこわし、その大石を郡山に運んでいます。そして翌々年から、急速に築城が進められて筒井順慶と親しかった明智光秀が、わざわざ工事を見回りに郡山まできています。
そして天正10年6月本能寺の変があって、世は柴田勝家、豊臣秀吉、明智光秀の三人のうち誰のものになるかは全く不明でした。順慶は落ち着かない気持ちで郡山城で大勢を傍観していました。(このとき、洞ケ峠に出陣して日和見したという悪名が流れたがこれは間違いで日和見していたのは郡山城であった) やがて光秀が滅びると、筒井順慶は天正11年4月、大急ぎで郡山城に天守閣を造営することになりました。豊臣、柴田両家の衝突に備えて郡山城を固くする必要があったのでしょう。この時よほど急いだとみえて、郡山や奈良あたりの石は手当たりしだい郡山城へ運んだのです。平城京が荒らされたのも、路傍の石仏まで積み込まれたのもこの頃でした。
おそらくそれらの石が現在原地にあれば国の文化財に指定されるものが多いでしょう。このとき、ついでに順慶は郡山の少し南にある額田部ぬかたべ(昭和村)に造兵工厰(ぞうへいこうしょう)を作って、大和一国内の寺々の釣鐘を集めて鉄砲を作らせています。
参考引用掲載 奈良の旅 学研
写真 ro-shin
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奈良市富雄 鳥見(とりみ) その二
http://pilgrimari.exblog.jp/11346820/
2010-09-28T19:09:09+09:00
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ro-shin
不思議奈良古代史
行基菩薩に諭された鯛女は、その場で仏法僧の三宝に帰依し、五つの戒律を受けて帰りました。
その帰り道、生きている大きな蟹を手に持っている見知らぬ老人に会いました。鯛女は、この蟹を放してあげようと思い「どこのおじいさんですか。どうか私にその蟹を譲って下さい」と頼みました。
老人は「私は摂津の国兎原郡(うはらのこおり)の者で、画問邇麻呂(えどいのにまろ)というものです。年は78才になりますが私には子も孫もなくどうして生きて行こうかと途方に暮れる毎日です。今日は難波(なにわ)に行って偶然この蟹を手に入れました。だが、約束した者がいますのであなたにこの蟹を譲るわけには行きません 」と言います。鯛女は上着を脱いで、それで蟹を買おうとしましたが譲ってはもらえません。次に裳をも脱いで頼みますと、ようやく譲ってくれました。
こうして蟹を買い取りますと、生駒の山寺に引き返し、菩薩に呪文を唱えてお祈りしてもらい蟹を放してやりました。
菩薩は「尊い行いだ。良い行いだ」と感嘆されました。
さて、八日目になると、また大蛇がやってきて、今度は屋根の棟に這い上がり茅を抜いて、鯛女の潜む部屋へやってきました。鯛女は寝床の中で、もう恐ろしさに目を固く閉じ身を縮めてぶるぶると震えるばかりでした。その時枕元で何物かがどたばたと激しくはね狂う音が聞こえてきましたがやがて静かになりました。鯛女は怖くて朝まで寝床の中で震えていました。 ようやく恐ろしい夜が明けたので部屋の中を見ますと一匹の大きな蟹がじっと鯛女を見守るようにしていました。しかも、その前には、大蛇がずたずたに切られて横たわっていました。それで買い取って放してあげた蟹が鯛女の恩に報いたのだとわかりました。
しかしながら、これはまた、戒律を受け守った信仰の力が、蟹に大蛇をも倒す力を授けたとわかりました。あまりに不思議な出来事であったので、真意のほどを確かめようと思い、かの老人の消息を訪ねましたがついに探し当てる事が出来なかったといいます。この時、鯛女にははっきりとわかりました。あの老人は、聖人の化身であると。まことに不思議な話であります。
「日本霊異記」(にほんりょういき)薬師寺僧 景戒作
霊山寺本堂
参考引用掲載 ならら
写真 ro-shin
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奈良市富雄 鳥見(とりみ)
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2010-09-25T13:05:00+09:00
2010-09-25T13:06:54+09:00
2010-09-25T13:05:20+09:00
ro-shin
不思議奈良古代史
蟹と蛙の恩返しのふるさと
奈良の都にある富の尼寺(現在の霊山寺と考えられている)の上座の尼、法邇の娘、置染臣鯛女(おきそめのおみたいめ)は、信心深い乙女でした。鯛女は心をこめて野の菜を採り、行基菩薩に奉仕する事を日課としていました。
その日も鯛女は山へ入って菜を採っていました。ふと見ると、一匹の大きなヘビがカエルを飲み込もうとしていました。鯛女は大蛇に「このカエルを私に免じ逃がしてやって下さい」と頼みました。しかし大蛇は鯛女の願いを無視してカエルを飲み続けます。
鯛女はなんとしてもカエルを助けようと「カエルを逃がしてやってくれれば、私はあなたの妻になりましょう。それゆえ、私に免じて願いを聞き入れて下さい」と頼みました。大蛇はこれを聞くと飲み込むのを止め高く頭を持ち上げて鯛女の顔をじっと見つめていましたが、ようやくカエルを吐いて逃がしました。それを見て鯛女は「今日より七日経ったら私のもとへきなさい」とヘビに「約束しました。
(富雄川沿いにある霊山寺門前)
そしていよいよ約束の日が来ました。鯛女はヘビの来るのを恐れ、家の戸という戸をきっちり閉め、ヘビの入ってきそうな穴という穴はすべてふさぎ身を固くして
部屋に閉じこもっていました。すると、本当に約束通り大蛇はやってきて、尾っぽで戸をたたきました。鯛女は恐ろしさに震えながら家の中でじっと身を潜めていますとヘビは諦めたのか、帰って行きました。
鯛女はとても恐ろしくなり明くる日、生駒の山寺竹林寺に住んでおられる行基菩薩を尋ねて相談しました。
菩薩は「おまえは逃れる事は出来ないだろう。しかし、一心に仏の戒めを守りなさい」と諭されました。
つづきます。
参考引用掲載 月刊ならら
写真 ro-shin
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