Pilgrim 東西南北巡礼記 :神戸の伝説
2018-03-11T06:32:24+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
Excite Blog
柿本神社 柿本人麻呂をまつる神社
http://pilgrimari.exblog.jp/19056466/
2013-11-27T12:25:00+09:00
2018-03-11T06:32:24+09:00
2013-11-27T12:23:11+09:00
ro-shin
神戸の伝説
天離(あまざか)る夷(ひな)の長通(ながち)ゆ恋ひ来れば 明石の門より大和島(やまとしま)見ゆ
歌聖柿本人麻呂(660年ごろ〜720年ごろ)が明石に立ち寄った経緯や年代は定かではない。辺境から都への帰途、畿内の山並みを遠望し、安堵の気持ちを詠んだ。
現在の明石城内「人丸塚」に人麻呂がまつられたのが887(仁和三)年。明石城改築にともなって現在地に移され、現存する神社本殿が創建されたのは1620(元和六)年と伝わる。 境内には人麻呂の三つの歌碑が点在するほか、明石藩主松平信之が建立した「柿本祠堂(しどう)碑」は約1700字の漢文で人麻呂の伝記を記す。 この神社は日本標準時子午線上に位置しています。また、明石海峡大橋が一望できます。
参考引用掲載 兵庫社寺巡礼2
写真 ro-shin
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敏馬(みぬめ)の浦
http://pilgrimari.exblog.jp/18999166/
2013-11-20T14:07:31+09:00
2013-11-20T14:04:53+09:00
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ro-shin
神戸の伝説
ずっと昔、摂津国の能勢(のせ)の郡(こおり)に、美奴売(みぬめ)山があってそこには敏馬の神がまつられていた。
さて神功皇后が九州の熊襲(くまそ)への遠征に出発しようとしたとき、勝利がおさめられるようにと祈って、もろもろの神々を集めて、川辺郡の神崎の松原でおまつりをしたことがあった。
そのとき、敏馬の神も神崎にやって来られた。
「皇后よ、私もそなたの軍を守ってやろう。そのために、私の住む美奴売山の美しい杉の木を切り出し、船を作ってそれに私を祀り皇后もその船に乗って戦いの指揮をとりなさい。そうすればきっと良い結果がもたらされるだろう」
この敏馬の神の言葉どおりに新しい船を造りそれに乗って皇后が兵を進めると、神の言葉どおりに新羅との戦いにまで勝利をおさめることができたという。
一説によると、この船に乗って西方へ向かうと船は時々牛のほえ声のような大声を上げて敵を恐れさせた。そして海を渡って朝鮮半島へ行く途中、対馬の沖まで来ると船はどうしても前に進まなくなり、とうとう一人で東の方へ帰ってしまった。瀬戸内海を進み明石海峡を通ったその船は、灘の脇の浜の東の小さな岬の前まで来るとぴたりと止まって動かなくなってしまった。
人々が占ってみると、敏馬の神が現れ
「この地が私の望む所だ。ここへ祀れ」
といわれたので、このちに敏馬神社を祀った。
皇后も帰国の途中、ここに立ち寄ってお礼参りをし、船を奉納した。これが今の敏馬神社である。
どういうわけかこの神さまは嫉妬深く、仲のよい男女は決してそろってこの神社に参ってはならない。そうすれば必ず二人は離別することになるからだ。江戸時代にも、このため花嫁の行列は神社の前だけは通らず境内の後ろを通ったものである。ただ、夫婦別れを望む人は相手の履物をもって神社に参り本殿の後ろへ捨てておけば必ず縁が切れたという。
また境内に閼伽井とよぶ霊泉がある。今も拝殿の前の石段を降りると西のガケ裾に清らかな水がこんこんとわいている。
この水は、昔から眼の病気に霊験あらたかだと信じられています。
万葉の歌人、大伴旅人が
妹と来し敏馬の崎を帰るさに ひとり見れば涙ぐましも
往くさにはふたり我が見しこの崎を ひとり過ぐれば心悲しも
と、なき妻を偲んだ。この地は、往古には大阪を船出した旅人が必ず船を寄せた停泊港で景勝地としても知られていました。後世の地形の変化や埋め立てなどですっかり様変わりしていますが、阪神岩屋駅の南側国道二号線に面した敏馬神社付近がかっての敏馬の崎です。
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin
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船寺神社 船寺谷の深淵(ふかぶち)
http://pilgrimari.exblog.jp/18993144/
2013-11-19T12:10:23+09:00
2013-11-19T12:07:06+09:00
2013-11-19T12:07:06+09:00
ro-shin
神戸の伝説
三韓に向かう神功皇后の一行が東明から西にさしかかったとき、折悪しく強い風が吹き波が高まって航海が危うくなった。そこで波浪をさけて一行は都賀川の東の小さな入り江に入って船を休めた。この入り江を都賀庄の深淵といっていた。のちに土砂が堆積されて海岸線が南へ退き深淵も埋もれて小さな谷になった。その谷は神功皇后が船を休ませたことから船寺谷と呼ばれるようになった。
皇后が船を休めたことにちなんでこの谷に小さな祠が建てられたのは、永保二年(1082)のことだという。これが今の船寺(ふなでら)神社のはじめと伝えている。 『有馬郡誌』の高平村大舟山の項に「古の羽束(はつか)郷の中にありて、山上に船寺ありしが今は波豆川に移せり。大舟山の名は一郷の中に浮べる船のごとくなれば、その名あり。山の鎮守たりし八幡神社は菟原郡大石川の西に移せり」と船寺が元々現・三田市域にあったと述べている。一方地元では船寺の由来については語られず船寺八幡の縁起だけが伝わる。今日の船寺八幡の社地は古代には敏馬ヶ崎の東に隠れた入り江で深渕(ふかぶち)と呼ばれていて、神功皇后が三韓征伐の帰途ここに船を入れて風波が静まるのを待ったという伝説があり、社伝によれば永保2年(1082年)、源義家が都賀野の公文に命じて皇后遺跡に八幡宮を建てさせたという。
岩楠社・・・ 御神木を祀る
船吉稲荷大明神
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin
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深江と野寄の大日つぁん 大日霊女神社(おおひるの)
http://pilgrimari.exblog.jp/18983402/
2013-11-17T18:57:20+09:00
2013-11-17T18:54:20+09:00
2013-11-17T18:54:20+09:00
ro-shin
神戸の伝説
深江の大日つぁん
深江北町四丁目から本庄町三丁目の一部にかけて、薬王寺という字名が残っている。中世の頃、この薬王寺を中心に小さな一つの村があった。人々は寺の本尊の大日如来をとても信仰していた。その少し東、芦屋川の堤を西に下ったあたりに土地の長者の住む永井屋敷があった。この屋敷を中心にして、やはり小さな村があったが、室町時代にこれらの二つの村が一つになって、深江村が出来上がったという。
ちょうどその頃、薬王寺の住職は、観空和尚であった。ところが観空は、当時念仏を布教して全国をまわっていた蓮如上人の説教を聞いてひどく感動した。そこで観空は、浄土真宗に改宗して寺も延寿寺と改名し、本尊も大日如来に代わって阿弥陀如来をまつりはじめた。それは文明年間(1469~1487)のことだという。
寺から出されてしまった大日如来を気の毒に思って引き取った村人たちは、社をたててそれをまつり、深江の大日つぁんと親しみだした。江戸時代には、このあたりに
♪ 深江こゆれば大日如来、高い高橋おどり松、ちょうなが池に片葉葦 ♪
という浜街道ぞいの風物をうたった俚謡(りよう・さとうた)があった。この大日つぁんが、今、阪神電車の深江駅の南にある大日霊女神社(おおひるめじんじゃ)の起こりだという。
一方の延寿寺は、寛永十年(1633)に正寿寺と改称されて、深江本町三丁目の地に移された。
野寄の大日つぁん
住吉川の東方、阪急電車の北に旧野寄村の氏神の大日霊女神社があって、野寄の大日つぁんと親しまれている。
昔ながい雨が降り続いて住吉川があふれ大洪水となった。ここの神さまはとうとう深江の村まで流されてしまった。人々はそこに大日つぁんをおまつりしたが、夜な夜な神さまは
「野寄に帰ろう、野寄に帰ろう」
といわれた。それでまた、野寄にも大日つぁんをおまつりした。こういうわけで野寄と深江に大日つぁんがまつられているのだ、と野寄では信じられている。
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin
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弓弦羽(ゆづるは)の社
http://pilgrimari.exblog.jp/18979195/
2013-11-16T22:00:39+09:00
2013-11-16T21:57:41+09:00
2013-11-16T21:57:41+09:00
ro-shin
神戸の伝説
東明の北方の丘陵を弓弦羽の嶽(たけ)とよぶ。
神功皇后が三韓への侵略を進めたとき、船の準備を終えたあとで、この丘で弓や矢をためしに射った。またそのとき、戦勝を祈って神功皇后が祀った神々が弓をためした所だともいう。美しく繁るこの丘は、後に譲葉岳とも書かれるようになり、海をゆく船からも、神々しくながめられた。
源平の争乱のあと源氏の内部に争いが起こった。兄の頼朝に追われる身になった源義経は、船に乗って西国へ逃げようとした。ちょうど東明の沖合にさしかかったとき、逆風にあってどうしても船を西に進めることができなかった。部下の弁慶が
「あそこに繁る神々しい岳の神に、順風を送ってくださるように祈ろう」
と提案し、みなは一心に祈願したという。
またその少し東北、阪急御影駅の前に弓弦羽神社がある。三韓から帰国し九州で王子をうみおとされた神功皇后に対して、謀反を起こした忍熊(おしくま)王がこの山に熊野権現を勧請して戦いの勝利を祈り、その背後の山中に弓矢や甲冑を埋めて祈願した。このことからその権現さまの社を、弓弦羽権現宮と呼ぶようになった。
御由緒
社伝によれば、往古、神功皇后三韓より御凱陣の時、長門國豊浦より摂津國難波浦に向かわれる途中、忍熊王(おしくまのみこ)が兵を挙げたのをお知りになり、皇后自ら当地で弓矢甲冑を納めて熊野大神を斎奉しご祈念されたところ、戦には大勝し、それより後は諸々の願い事は、全て御心のままに叶いました。
この故事により、神社背後の秀麗な峰を弓弦羽嶽(弓矢)とも六甲山(甲冑)とも言います。又、神功皇后がこの里の泉(澤の井・阪神御影駅南)に、お姿を写しになった故事によりこの里は「御影」(みかげ)となりました。
8世紀末に、この弓弦羽ノ森(ゆづるはのもり)を神領地と定め、嘉祥2年(西暦849年)正月14日神祠を造営して改めて熊野大神をお祀りいたしました。この時、熊野那智大社の別當慶覚は「摂津國灘浦遊鶴羽之峯権現の故事当文庫に記録あり云々……」と祝文を送ったと言います。
参考引用掲載 神戸の伝説 弓弦羽神社HP
写真 ro-shin
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平野城と中勝寺
http://pilgrimari.exblog.jp/18973044/
2013-11-15T17:00:01+09:00
2013-11-15T16:56:19+09:00
2013-11-15T16:56:19+09:00
ro-shin
神戸の伝説
御影の郡家に江戸時代には大庄屋をつとめた平野氏がいて、阪急御影駅の西北にその居城・平野城があった。
平野一族の祖先、平野備前守忠勝は、播州の豪族赤松則村の家臣であった。郡家の山手に居城をもち、南北朝の動乱時代に武勲をたてた。そののち足利尊氏方について、その弟直義との観応の戦いに敗れたのち、忠勝は考えた。
「もう戦いをしても何もならぬ。無益な血を流すより、城のある御影で田畑を開いて生活をしよう」
こうして一族は、郡家村で農業に従事するようになり、すっかり土地に根をおろした。平野秀満が当主であった永正二年(1505)、彼は祖先の忠勝を弔うため、郡家の夢境庵という寺を菩提寺にして、平野山忠勝寺と改めた。
忠勝寺は、それから250年も後の明和四年(1767)に火災にあった。そののち再建されたときには、平等山忠勝寺と改称されたが、今も阪急御影駅の南方に緑に囲まれて建っている。 現在は浄土宗知恩院の末寺で阿弥陀如来を本尊としている。
中勝寺(ちゅうしょうじ)は、元来「忠勝寺」(ただかつでら)と称し、平野備前守忠勝を祀った菩提所である。
平野備前守忠勝は、源頼正の子孫で、正平年間(1346年頃)御影の上の山に平野しろ(御影村城)を構えていた。足利尊氏とその弟との間に起きた観応の戦乱(1351年頃)に巻き込まれて破れた後、郡家村に退いて農業に従事した。 その後、平野氏の子孫は旧尼崎領内上席の大庄屋職となり、東は兎原郡津知村(現在の神戸市東灘区周辺)から西は八部郡坂本村(現在の神戸市兵庫区周辺)に至る22個村を治めた。
この平野備前守忠勝参墓は、当寺院東側の平野氏旧屋敷内の的場にあった。平成15年(2003)の境内墓地整備に当たり、忠勝子孫の八基と共にこの地に移設したものである。
なお、当寺院の東隣にある水神宮は、文政12年(1829)に私費を投じて住吉川から灌漑用水を引いた忠勝子孫の平野延輝を祀ったものであり、その墓は中勝寺(ちゅうしょうじ)境内本堂の西側にある。
平成15年8月 第26世 藤井大俊・・・・・掲示板より引用
参考引用掲載 神戸の伝説
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船繁の松と綱敷天神
http://pilgrimari.exblog.jp/18966168/
2013-11-14T10:31:03+09:00
2013-11-14T10:28:05+09:00
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ro-shin
神戸の伝説
昌泰四年(901)藤原時平のたくらみによって、右大臣の菅原道真は、ついに太宰府へ左遷されることになった。
一行の船が、御影の沖合にさしかかった。
「美しい松林だ。この辺りで一休みしてゆこう」
ということになった。御影石町二丁目の綱敷天神のお旅所にむかしあった老い松は、このとき船をつないだ浜辺の松だったので、菅公船繋(かんこうふなつぎ)の松とよばれた。 一行の上陸した土地が旧石屋村である。その地に山背(やましろ)という豪族があった。急なことなので村人は石の上に綱をぐるぐると巻いて敷き席を設けて道真をもてなしたという。休んだあと、一行はまた浜に出、とも綱をといて出航して行った。 道真が、死後太宰府天満宮にまつられたあと、その子孫の菅原善輝が道真の足跡をたどってここに来、席を設けた故事にちなんでまつったのが、石屋川堤の東、JRの北にある綱敷天満神社だという。 また、この神社の社宝に、四天王寺建立のためによい石材をさがしていた聖徳太子が、この北の山から立派な石の出土したことを祝って、子の地から出た鉱石に刻んだ蒼稲魂(うかのみたま)の神の霊像がある。
参考引用掲載 神戸の伝説
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沢の井と枳穀(きこく)御殿
http://pilgrimari.exblog.jp/18960245/
2013-11-13T08:34:02+09:00
2013-11-13T08:31:03+09:00
2013-11-13T08:31:03+09:00
ro-shin
神戸の伝説
阪神御影駅を南に出ると、すぐ西に大きな石垣に囲まれた水場が電車の高架の下にある。その水場の奥の、薄暗いあたりに石づくりの大きな井戸がみえる。これを沢の井とよんでいる。
朝鮮半島への侵略から帰国した神功皇后は、ちょうどこのあたりで船を岸に着け、それを水鏡にして顔を写しお化粧を整えた。それが、この沢の井だという。それ以来、泉は枯れることなく、こんこんと清水をわかせつづけている。そしてこの一帯神功皇后が御姿を写されたということから御影の地名がついたと伝えている。
この沢の井少し南に、枳穀(きこく)御殿と呼ばれる所があった。上陸した皇后が枳穀(きこく・カラタチの漢名)の垣でぐるりと取り囲まれた立派な御殿を建てて、しばらくとどまられたところである。幾百年たったことかわからないが、幕末の頃にもここに、枳穀(きこく)の垣の跡が残っていた。
また、南北朝時代に、沢の井の清水を使ってよい酒が醸された。それを後醍醐天皇に献上したところたいそうよろこ(嘉)び、その酒を納められたその時から、このあたりの有力な酒造りの一族は、嘉納の姓をなのりはじめたのだと伝える。
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin
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本住吉(もとすみよし)と長峡(ながお)の松
http://pilgrimari.exblog.jp/18943537/
2013-11-10T09:32:43+09:00
2013-11-10T09:30:00+09:00
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ro-shin
神戸の伝説
三韓から帰国した神功皇の船団が、難波の近くまで来ると急にくるくると回って進まなくなった。そこで、いったん務古水門に船をつけ占いをしてみたところ、表筒男(うわつつお)・中筒男(なかつつお)・底筒男(そこつつお)の三柱の神が現れ「大津の渟名倉(なぬくら)の長峡(ながお)にわれをまつれ。さすれば船の旅行を守護しよう」と告げられた。
そこで皇后がこれらの神を祀られた所がJR住吉駅の南にある本住吉神社だ。のちに仁徳天皇の頃、ここから大阪の堺の方(現在は大阪市住吉区)に住吉大社は移されて行った。それで、こちらを本住吉と呼ぶのだという。
この本住吉神社のお旅所わきにある呉田幼稚園の地に、長峡の松」と呼ばれる大きな松があった。この松は神功皇后船のつなぎの松ともよばれ、この地が昔、大津渟名倉之長峡(おおつなぬくらのながお)と呼ばれた所で、神功皇后が、住吉の神を祀るために船をつけられた所だと言い伝えられている。
西国本街道 本住吉神社の南東角に有馬街道の道標があります。明治の初め、鉄道が開通して以降、住吉駅が有馬温泉への玄関口だった頃の名残です。
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin
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夢野の氷室 (氷室神社)
http://pilgrimari.exblog.jp/18933486/
2013-11-08T14:20:19+09:00
2013-11-08T14:17:37+09:00
2013-11-08T14:17:37+09:00
ro-shin
神戸の伝説
清盛七辨天の(えんむすびの神)れんあいべんてんとして人気を集めています。市杵島比売命(いちきしまひめのみこと)や大国主大神が祀られています。
仁徳天皇の六十二年、天皇の兄の額田大仲彦皇子が夢野で狩りをしていたことがあった。狩りのあいまに小さな山に登った皇子が、広々とした夢野の原をながめていた。
「おや、夢野の中に、ぽつんと何かみえるぞ。ちいさないおりのようだが」
調べてみると、それは何かいわくありげな洞窟であった。そこで、闘鶏稲置大山王という土地の古老を呼んでたずねることになった。氷室の内部
「あれは、氷室でございます。あの岩屋の中は、いつもつめたくひえびえしております。そこでこの土地の者は、冬の間に大きな氷を切り出し、あの岩屋の底の地面を一丈ばかりも掘って底に草を敷き、そこに氷をつめますのじゃ。その上にたくさんの茅などでおおい、土地をかけます。そして氷を保存し、暑い季節になると、氷を掘り出しくだいて水や酒に入れて飲むのです」
「それはめずらしい、よいことをきいた。さっそく天皇に氷をさしあげよう」
とどけられた氷を食べた天皇はとても喜ばれた。こうして毎年、冬にこの氷室に納められた氷は暑くなるころ天皇にとどけられるようになったという。
氷室町1丁目の氷室神社本殿の西には、この氷室のあとと伝える岩屋がある。中には清らかな湧き水がたまっていて、江戸時代には夢野の清水とよばれていた。源平合戦のときにこの清水のそばに、平教経が陣取っていたので、夢野清水は、一名陣馬の井とも呼ばれていた。
参考引用掲載 神戸の伝説
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五百そうの船と武内松(たけのうちのまつ)
http://pilgrimari.exblog.jp/18927044/
2013-11-07T11:31:44+09:00
2013-11-07T11:29:02+09:00
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ro-shin
神戸の伝説
魚崎八幡神社の境内にある松
六甲山系の土砂をけずった住吉川がそれを運び、河口に堆積して灘の浜辺に作った砂州が魚崎である。古くはイオザキと読み五百崎(いおざき)とも書いていた。
さて、応神天皇の三十一年のことだという。伊豆の国から一そうのすばらしい大船が朝廷へ献上されてきた。その船の名は「枯野」といった。たくさんの荷を積んでもめざましい速さで走る立派な船だった。しかし、いく年も利用しているうちにさしもの大船も少しずつ朽ちてゆき、とうとう使用に堪えられなくなってしまった。そこで朝廷はその船を解体し、材料を燃料にして浜辺で海水から塩を焼くことになった。その結果、五百かごもの塩がとれたという。
朝廷では諸国に命じて代わりの船をさし出させ、その代償に塩を与えることにした。このとき、国々から献上されてきた船の数は五百そうにものぼった。武庫(むこ)の水門(みなと)の近くでこれらの船が集められた浜なので、そののちに五百崎(いおざき)と呼ぶようになった。
ずっと後のことである。不漁の年が続いたで漁師たちは話し合った。
「きっと浜の名前が悪いのだ。もっと魚がたくさんとれるように、魚崎と改めてはどうだろう」
と、だれかがいいだした。豊魚を祈って地名を改めることを領主に願い出、それが認められて魚崎と変わったのだと伝えている。 また、西方へ遠征しようと考えた神巧皇后は、全国に軍船を供出せよとの命令を出した。ぞくぞくと集結してきた船が、務古水門(むこのみなと)の近くの浜に集まり、装備を整えていた。このときの船の数が五百そうもあったので五百崎なのだ、ともいう。
それらの船の装備やさらに多くの船が魚崎で造られたとき、大臣の武内宿禰は、処女塚の近くにいて、魚崎を遠望してそれを監視し指図した。宿禰が遠目で見張っていた所だから、処女塚のあたりを遠目(とおめ)の浜と呼ぶようになった。 いよいよ軍備も整い出航することになったとき武内宿禰は、その浜の松の枝を手折って砂浜に突き立てて神に祈った。
「もしこのたびの戦いにわれらが勝利をおさめられれば、そのときには松の枝よ、根をはやし、枝葉を繁らせよ」
神巧皇后の勝利ののち、その松はこの祈りどおり根を大地におろし、浜辺に力強く繁った。この武内の松といわれる古木の切りくいが処女塚の東にある、八幡神社の境内に残っている。
また戦いが終わって皇后の一行が帰国し、務古水門に近いこの辺りまできたとき、ようやく東の空が明け朝日が輝きだした。それで、遠目の浜はこのときから東明(とおみょう)と改められのだ、と伝える。帰国した船団はさらに東の魚崎にいったん船を着けた。魚崎八幡神社の境内にある神よりの松は、このとき、神功皇后が船をもやった浜辺の松だという。
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin
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西国街道の首地蔵
http://pilgrimari.exblog.jp/18909253/
2013-11-04T19:19:50+09:00
2013-11-04T19:17:10+09:00
2013-11-04T19:17:10+09:00
ro-shin
神戸の伝説
国道2号線を大阪方面へ住吉川を越えて、コープこうべ生活文化センターの横の道を入り、右に曲がるとはじめての辻にお地蔵さんの祠があります。祠は、普通のおじぞうさまの祠ですが、祠いっぱいにおじぞうさまのお顔があります。
東西の道は旧西国街道で、江戸時代には大名行列が通った表街道筋にあたります。
かつて西国街道沿いに「花松地蔵」と呼ばれるおじぞうさまがあって首から上の病に霊験があると信仰を集めていました。大正時代初めごろ、どうしたいきさつか首だけのおじぞうさんが祀られるようになりました。
参考引用掲載 神戸まちかど散歩
写真 ro-shin]]>
夢野の鹿
http://pilgrimari.exblog.jp/18904790/
2013-11-04T00:29:42+09:00
2013-11-04T00:26:31+09:00
2013-11-04T00:26:31+09:00
ro-shin
神戸の伝説
千五百年ほども昔のことである。今の会下山の板になだらかに続く草原があって、刀我野(とがの)と呼ばれていた。そこに一頭の雄ジカとその妻の雌ジカとが住んでいた。
ある夜明けのことだった。ふしぎそうな顔つきで、雄ジカが
「きのうの夜、変な夢を見たよ。どういうことだろう。ぼくの背に、まっ白な雪がサラサラふりつもったんだ。すると、そのうちに背中からはえたススキが
、雪を割ってのび、こんもりと繁ったんだよ。どういうことなのだろう」
と雌ジカにささやいた。わきに横たわっていた雌ジカは、少し考えたあと、ふと思いついたように心配顔で、
「それは悪いことの前ぶれだわ」
とさけんだ。
「あなたの背にススキがはえるなんて。それは矢よ。狩人の射る矢が背中に突き刺さるのよ。白い雪がつもるって。白いのは塩よ。きっと狩人に射ころされて、白い塩をつけられて、あなたの肉はむしゃむしゃ食べられるかもしれないわ。おそろしいこと。当分、この野原にじっとひそんでいましょう。出歩いてはあぶないわ」
おそろしそうに語りながら、それでもなぜか、雌ジカは少し安心しているようにも思えた。(これで、当分ここに私といっしょに暮らすはずだわ)
というのは、その頃この雄ジカには、淡路島の野嶋(のじま)にひそかに愛する雌ジカがいたのだ。しばしば海峡を泳ぎ渡って、こっそりその雌ジカのところにゆく雄じかのことを、刀我野の雌ジカは知っていた。もう一度、雌ジカはいった。
「当分ここでじっとしていましょう。そうすれば安心だわ」
「ほんとだ。これは大変だ。当分は刀我野にひそんでいよう」
と雄ジカも思っていた。
それでも、雄ジカには、どうしても野嶋の雌ジカのことが忘れられなかった。いつしか、雌ジカにかくれてこっそりと海辺にやってきた。はるかかなたに淡路島が見えた。
「あの島の、こちらのはしが野嶋だ」
ついに雄ジカは海に飛びこんだ。ザブリ、ザブリと波がしらを越えて泳いで行った。大きなうねりを越えたとき、突然、背中に激痛が走った。波しぶきが赤く染まった。
「りっぱなシカをしとめたぞ、はやく船にひきあげろ」
野嶋の雌ジカのところへも、刀我野の妻のもとにも、二度と雄ジカはあらわれなかった。
このときから刀我野は夢野(ゆめの)とよばれるようになった。千年以上も前のこの地方のことわざに
『刀我野に立てる真牡鹿も、夢あわせのまにまに(刀我野の雄ジカのように夢判断しだいで、幸にも不幸にもなる)』
というのがあったと伝える。
夢野八幡神社
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin
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熊野神社
http://pilgrimari.exblog.jp/18901276/
2013-11-03T08:04:36+09:00
2013-11-03T08:02:10+09:00
2013-11-03T08:02:10+09:00
ro-shin
神戸の伝説
熊野町という町名は、そこにある熊野神社に由来する。
平清盛は、福原に都を遷したとき、周辺にいくつかの寺や神社をまつって新都の鎮守を祈った。もともと熊野権現を崇拝していた清盛が、そのような目的でこの地に勧請したものだという。そのため、古くからこの神社の本殿は、紀州の熊野権現と同じく巽(たつみ)の方向をむいていたという。 国生み神話の主人公、イザナギ・イザナビの二神を祀る熊野神社は、平清盛が福原遷都にあたって王城鎮護のため紀州権現を勧請したと伝えられています。なお、大正七年(1918)の調査ではこの付近の地下から土器に納められた貝の腕輪などの遺物が大量に出土し、先史時代から人が住んでいた形跡がうかがわれます。
参考引用掲載 神戸の伝説 歴史散歩パンフレット
写真 ro-shin
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会下山(えげやま)善光寺
http://pilgrimari.exblog.jp/18895871/
2013-11-02T07:51:58+09:00
2013-11-02T07:49:32+09:00
2013-11-02T07:49:32+09:00
ro-shin
神戸の伝説
かなり急勾配の道を登って行くと善光寺があります。境内は整えられていて美しいです。
会下山善光寺は天台宗に属し、比叡山延暦寺を総本山としている。当寺は、大正六年四月八日、善光寺関西別院会下山寺として開創。信州善光寺一山より英盛師神戸東錫により開山一世となる。大正九年四月五日、寺院開創記念事業として大梵鐘が鋳造される。大正十一年四月八日飛鳥式鐘楼建立。大正十三年四月、露佛不動尊入佛開眼。昭和九年十二月英盛和尚遷化。二世盛純師が後継となる。第二次大戦開戦によって梵鐘は回収されるが不動尊は存置。昭和二十年三月の空襲により、本堂庫裏焼失。翌年十月仮寺務所を建て再び信州善光寺より御分身如来御本尊を奉安す。昭和三十二年十一月(一世二十五回忌)本堂落成式を迎え寺名を会下山、善光寺とする。昭和四十年十一月(一世三十三回忌)梵鐘を鋳造。昭和五十七年十一月英盛師五十回忌に当たり、天台、傳教両大師が開眼奉安される。平成二年一月二世盛純和尚遷化す。
少年武者 平業盛(なりもり)
業盛は清盛の弟教盛(のりもり)の末子である。一ノ谷の戦に平家方は大敗離散し、当年十七歳の少年業盛は緋縅の鎧で連銭葦毛の馬に乗り唯一人行き先を打案しつつ駒を渚に立たせて居た。
折柄源氏方泥屋四郎及び其弟五郎が追撃して来たので之を迎えて奮戦し遂に兄四郎と馬上に引き組んで地に落ちはげしく揉み合上に重なったまま古井戸に落ち込んだ。
弟五郎は兄の危急を救わんとして業盛の甲の錏を力まかせに引き離そうと焦る。業盛は之を防ぎ兄四郎を殺そうとして一生懸命である。業盛はまだ少年とは云へ其の大力は大人も及ばぬ位であったので彼が五郎を振り離そうとして首を振ったはづみに甲の緒が引切れ、五郎は業盛の甲を持ったまま二間程も振飛ばされた。
併し五郎も去る者で之にひるまず直に立ち上がり業盛の首を打ち取った。少年業盛の剛勇と怪力に敵も味方も其死を惜まぬものはなかった。
参考引用掲載 善光寺縁起 掲示板より
写真 ro-shin
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