Pilgrim 東西南北巡礼記 :京都人権歴史紀行
2018-05-31T08:03:22+09:00
ro-shin
関西の神社・仏閣・古墳など巡っています。
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六角堂
http://pilgrimari.exblog.jp/21191350/
2015-05-04T16:43:00+09:00
2018-02-23T10:45:17+09:00
2015-05-04T16:43:41+09:00
ro-shin
京都人権歴史紀行
観音菩薩信仰と非人貧民救済の町堂 六角堂頂法寺は、四天王寺建立の材木を求めて山背(やましろ)盆地を訪ねた聖徳太子が、その持仏如意輪観音を本尊として創建したと伝えられています。京都にとっては主のような存在で、境内に「京のへそ石」として親しまれています。 この堂は清水寺、因幡薬師堂、革堂とともに、平安時代から庶民の信仰を集めてきましたが、烏丸・六角という街の真ん中に位置していることもあり、市民生活と切り離せない関係で推移します。
とくに町衆の勢力が台頭する中世後期には、下京町衆の町堂として祇園会山鉾巡礼の籤とり式はもちろん、下京町衆の寄り合い、非常時や時刻を告げる鐘など、みなこの堂の役目とされ久世舞いなど庶民を対象とした勧進興行の場としても利用されました。 一方、観音に救済を求める信仰の場としても重要な役目を担っていました。六角堂が洛中非人の救済の場であり、たまり場であったことは、死者供養の施行銭を配る場所として、獄舎・清水坂・雲居寺・融通堂などとともに六角堂が挙げられていることからも知れます。
また飢饉における貧民救済も六角堂で行なわれており、寛正二年(1461)に勧進聖願阿弥(かんじんひじりがんあみ)が流民のために六角堂前に建てた収容舎は東洞院通から烏丸通まで数十間に及んだといい、堂では毎日粥の施行を行なっていました。
江戸時代には六角形の姿ではありませんでした。現在の堂は明治初年の建造で、華道池坊として繁栄しています。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行
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空也堂(くうやどう)市の聖の民衆救済
http://pilgrimari.exblog.jp/20561509/
2014-12-21T16:19:00+09:00
2018-03-03T17:04:33+09:00
2014-12-21T16:19:56+09:00
ro-shin
京都人権歴史紀行
堀川通の東、堀川高校の東南にあります。紫雲山光勝寺と称し、平安時代の僧、空也上人を開祖とします。
創建の地は三条櫛笥小路(くしげこうじ)といいますから現在の西北方、今新在家西町付近です。応仁の乱で焼失したあと寛永年間に現在地に遷ったといいます。 鹿角杖(わさづえ)を手に皮の衣をまとい念仏を唱えて全国を行脚した空也上人は、仏教の教えを庶民に弘通(ぐづう)した早い時代の宗教者として知られますが、のちにこの系統の宗教者たちは『時宗』(じしゅう)と呼ばれ、多くの念仏聖が庶民たちに交じって救済の事業に携わるようになりました。
なかでも京都の空也堂に根拠を置いた一派は、空也僧などとも呼ばれ、有髪で鹿角杖にぶら下げた瓢箪を撥(ばち)でたたきながら市中を巡ったところから、中世後期には「鉢たたき」の名でも呼ばれました。
彼らは同時に竹を細かく割って製した「茶筅」を売り歩いて生活をしていました。近世初頭の庶民風俗を描いた「洛中洛外屏風」などには、竹竿に多くの茶筅を挿して、瓢箪を手に二人一組で街を行く姿が描かれています。なお現在では茶筅はお茶を立てる道具として知られています。古くは物を洗う台所用品でもあり庶民の生活必需品でもあったのです。
江戸時代の空也堂は貞享元年(1684)序の『雍州府志』(ようしゅうふし)に、「この院内の一老を上人と称し、魚肉をくわず、妻子を携えず髪を剃り衣を著す。その余十八家の者は髪を剃らず妻子を携える。常に茶筅を製し市朝で売る」と記されていて、一人の住持を中心に十八軒の有髪帯妻の茶筅売りがいたことがわかります。この十八家については「凡そ十八家人、厳冬・寒夜に至り、毎夜洛中墓所・葬場を巡る。各々竹枝を以て瓢をたたき、高声に無常の頌文を唱える是れ修行の為也」とも記されています。
彼らは本来寒中修行として都の外にあった七ヶ所の三昧地(墓所)を巡って死者供養をしていたのです。
江戸時代の空也堂は諸国に散在した茶筅とか鉢たたきと呼ばれた空也僧の末流を統括するとともに、民間で行なわれた念仏行事である「六斎念仏講中」(ろくさいねんぶつこうちゅう)の一流に免許を与えるなど、本山的活動を行っており仁孝天皇や孝明天皇の中陰仏事には、焼香念仏を奉納しています。なお現在でも十一月十三日の空也忌には岐阜・名古屋などから集まった空也僧により勇躍念仏(ゆやくねんぶつ)が踊られ、国の無形民俗文化財となっています。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行
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高麗美術館(こうらい)
http://pilgrimari.exblog.jp/20448308/
2014-11-30T16:28:00+09:00
2018-03-03T17:17:26+09:00
2014-11-30T16:28:41+09:00
ro-shin
京都人権歴史紀行
朝鮮文化の宝庫。在日一世の願いの結晶 京都市北区紫竹上岸町の財団法人高麗美術館は、京都を第二のふるさととして、京都をこよなく愛した在日朝鮮人の鄭詔文(ちょんじょむん)さんが、日本の中で心血をそそいで蒐集された朝鮮の美術工芸品や民具など、千七百余点を中心とする美術館です。
1925年の春にご両親とともに来日した鄭詔文さんは、差別と偏見の中をたくましく生き抜いて1989年の2月享年73歳で逝去されました。在日六十有余年のその生涯を貫いたのは、祖国統一への熱い願いであり、朝鮮美術へのひたむきなあこがれとその伝統に対するゆるぎない自信でした。
高麗美術館の陶板表示板は、司馬遼太郎さんが執筆されました。毎年、春と秋には特別展示が開催されますが、この美術館の常設展示室には、高麗・李朝のすぐれた陶磁器のほか朝鮮半島出土の考古資料や絵画・彫刻などの逸品がならんでいます。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行
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護王神社の主神・和気清麻呂と広虫(ひろむし)
http://pilgrimari.exblog.jp/20274745/
2014-10-10T13:03:00+09:00
2018-05-31T08:03:22+09:00
2014-10-10T13:03:57+09:00
ro-shin
京都人権歴史紀行
古代の社会福祉の先駆者
延暦十三年(794)の10月、都は長岡京から平安京に移されましたが平安遷都の実質的な推進者は和気清麻呂でした。それは清麻呂が亡くなったおりの薨伝(こうでん)に長岡の新京が10年を経ても完成をみず、厖大な費用がかかりすぎているとして桓武天皇に葛野への遷都を「ひそかに奉す」と述べられているのにうかがわれます。(『日本書紀』)
その和気清麻呂の姉が和気広虫です。和気氏の家伝ではその祖先を磐梨別(いわなしわけ)と伝えていますが、和気氏は備前の東部・美作(みまさか)の東南部の有力な豪族でした。広虫と清麻呂の父は和気乎麻呂(あまろ)で、広虫は天平末年ないしは天平勝宝二年(750)のころに、葛木戸主(かつらぎのへぬし)と結婚しました。しかし天平宝字四年(760)のころに戸主がこの世を去って、広虫は30歳あまりの若さで未亡人となりました。 葛木戸主夫妻は社会の福祉につとめ、平城京内の孤児を集めて養育し、天平勝宝八年(756)には成人となった男9人女1人を養子としました。天平宝字三年(759)の3月19日に、葛木戸主が東大寺正倉院の薬物を施薬院に分与することを請願した文書が、現在も正倉院文書の中にあります。
広虫は孝謙上皇の側近の女官になり、上皇が仏門に帰依したおりには、出家して法均尼となります。天平宝字八年(764)には藤原仲麻呂の乱で孤児となった83人を保育し、葛木首(かつらぎのおび)と姓(かばね)を与えられたその全員を養子にしました。そればかりではありません。仲麻呂の乱に連座した375人の助命減刑を上申して、その願いが認められています。 古代において孤児の養育にあたった人物は他にもありますが、広虫のように長期にわたっていく度も孤児などの救済にあたった例はきわめてまれです。広虫は延暦十八年(799)の正月20日、70歳をもってこの世を去りましたが、その生涯は社会の福祉や保育の先駆者ともいうべき慈悲の人生でした。 清麻呂の学識と勇気ある行動の背景に姉の力が大きな光を与えています。広虫の薨伝(こうでん)には「貞順にして節操かわることなく、こと清麻呂の語中にあらわる」とあり、広虫の逝去後一ヶ月のちにあの世へ旅立った清麻呂の薨伝には、桓武天皇の「いまだかって法均(広虫)、他人の過を語るを聞かず」の言葉が載っています。護王神社の主神は清麻呂公と広虫姫命です。神護寺境内にあった社殿を明治19年御所の守護神として現在地に移転。4月4日は護王大祭のいのしし行列があります。
いのしし神社のおはなし
奈良時代の末、法皇となって権勢をふるっていた弓削道鏡は天皇の位をわが物にしようと、「自分を皇位につかせたなら天下は太平になると宇佐八幡の神さまのお告げがあった」とウソをつきました。 天皇から御神託が本当にあったかどうか確かめてくるよう命を受けた和気清麻呂公は、九州の宇佐八幡へ行き御神前に「真意を示し給え」と叫びました。すると光の中から宇佐の大神が現れ、「天皇の後継者には必ず皇族のものを立てなさい。無道の者は早く追放してしまいなさい」と御神託を下されました。
都へ帰った清麻呂公は、このことを天皇に報告し、道鏡の野望を暴きました。しかし道鏡の怒りをかった清麻呂公は、大隅国(鹿児島県)に流されることになりその旅の途中、道鏡の放った刺客に襲われ足の筋を切られてしまいました。
一行が豊前国(福岡県東部)にさしかかった時、どこからともなく三百頭ものイノシシが現れ清麻呂公の輿の周りを護りながら十里(約40km)の道のりを案内し、またどこかへ去っていきました。すると清麻呂公を悩ませていた足の痛みも不思議となおっていました。
一年後、称徳天皇の崩御により道鏡が失脚すると、清麻呂公は都へ呼び戻され、晩年まで世のため人のために尽くしました。清麻呂公の立派な人柄とともに、彼を護ったイノシシのお話は、後世まで語りつがれることになりました。清麻呂公を祀る護王神社には、狛犬の代わりに狛イノシシが建てられ今も清麻呂公を護り続けています。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 護王神社パンフレット
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平野神社
http://pilgrimari.exblog.jp/20240402/
2014-09-29T13:01:00+09:00
2014-09-29T13:01:42+09:00
2014-09-29T13:01:42+09:00
ro-shin
京都人権歴史紀行
京都市北区平野宮本町に鎮座する平野神社は、平安健都ゆかりの古社です。
祭神は今木(いまき)神・久度(くど)神・古開(ふるあき)神・比売(ひめ)神の四神で、その本殿は神社建築史上に特筆すべき平野造として有名です。
鎮座1200年を記念して公刊された『平野神社史』(平野神社社務所)に詳しく述べておきましたように、もと今木・久度・古開・の三神を祭祀し、後に相殿の神として比売神が合祀されました。その合祀の時期は承和三年(836)の11月以降で嘉祥元年(848)の7月までの間であったと考えられます。したがって延長五年(927)に完成した『延喜式』には「平野祭神四座」と明記されることになります。
「平野神」という表現は、祭神の三神あるいは四神の総称として使われている場合もあります。その主神といってよい今木(大)神のみを指す場合があります。平安時代以来「平野祭」は重要な祭儀となりましたが、その中心の奉斎神が今木大神であったのにもうかがわれますように、今木大神の祭祀の由来にもっとも注目すべき創建のいわれが秘められています。
上七件(西陣の旦那衆でにぎわった花街)
この通りを抜けると平野神社
「続日本紀」の延暦元年(783)11月の条をみてもわかりますが、この今木大神は平城京の田村後宮(田村第、左京四条二坊十一坪のあたり)で山部親王(後の桓武天皇)とその母の高野新笠(たかのにいがさ)らによってまつられていた神でした。
桓武天皇の生母であった高野新笠の父は、和乙継(わのおとつぐ)で、百済の武寧王の血脈につながる人物でした。その出自への認識は、高野新笠(追号皇太后)の崩伝(『続日本書紀』)にもはっきりと反映されています。だからこそ渡来系の神である今木大神が田村後宮で祭祀されていたわけです。
今木を今来とする説が古くからありますが「上代仮名遣い」では今木の「木」は乙類、今来の「来」は甲類でしたから、ただちに今木=今来とするわけにはまいりません。しかし今木た”おくどさん”(竃かまど)の神であったと同様に、渡来系の神であったことはたしかです。
平野神社の創建については、延暦年間とする伝えのほか、たとえば『一代要記』に延暦十三年(794)とする史料もあります。平安建都と桓武天皇、桓武天皇と武寧王とのつながり。平野神社の原像のも朝鮮半島との史脈が浮かび上がってきます。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 著 上田正昭
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宇治橋断碑
http://pilgrimari.exblog.jp/20201711/
2014-09-16T19:25:56+09:00
2014-09-16T19:26:17+09:00
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ro-shin
京都人権歴史紀行
急流に架橋
社会事業の端緒を開いた道登
川は水や魚介といった恵みを与えてくれると同時に、洪水によって多くの被害をもたらす恐ろしい自然でもあります。それゆえ人びとは川は人の力の及ばない畏怖すべきものであり、神が宿ると考えてきました。
また、川を渡るということは、未知の世界、すなわち異界に立ち入ることであり、橋は異界へ通じる道路でもありました。それゆえ、川に橋をかけるという行為は、僧侶のような世俗をこえた人たちに委ねることによって可能であったと言えます。橋以前の渡しについても、渡しは川という聖域に関わる行為であり渡守も俗を超えた性格を持っていると見られていました。 とはいえ、川によって遮られた交通路を繋ぎ人びとの往来を容易にし、大量の物資輸送をすこぶる利便にするものとして架橋はきわめて重要な事業となり、主要な交通路上の橋は国家の管理のもとに置かれることになりました。
宇治橋がはじめて宇治川に架けられたのは七世紀の頃です。宇治は大和から近江を経て東国へ向かう主要ルート上にあり、宇治川の渡河点としての宇治橋は、軍事的にもきわめて重要な位置をしめていました。
宇治橋は大化二年(646)奈良元興寺の僧道登(どうと)によって架けられたと「宇治橋断碑」には記されています。しかし『続日本紀』(しょくにほんぎ)には法相宗法興寺の僧道昭が建立したと記されています。どちらが正しい史実を語っているかについてはひとまず置くとしても、道登は社会事業に尽力し道昭は「後ニ於テ、天下ニ周遊シテ、路傍ニ井を穿チ、諸ノ津済(わたり)ノ処ニ船ヲ儲ケ橋ヲ造ル」(『続日本紀』文武天皇四年三月己未条)とあるように諸国をめぐって井戸を掘り渡しを設けるなど精力的に土木事業を行った人物としてよく知られています。ともかく宇治橋架橋に関わる両人は、ともに社会福祉事業に積極的に関わっています。 宇治橋から上流をながめると中州の塔の島の浮島十三重塔が見えます。非人救済事業に精力的に取り組んだ西大寺の僧叡尊(えいそん)が、弘安九年(1286)に、宇治川での殺生禁断と宇治橋供養のために建立したものです。叡尊が宇治川での網代停止と引き替えに、彼の唯一の土木事業である宇治橋の架橋を行ないましたが、塔はその記念碑ともいうべきものです。河の中州という場所柄、幾度となく倒壊の憂き目にあっていますがそのつど復興されて今日におよんでいます。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 著 源城政好
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千本釈迦堂
http://pilgrimari.exblog.jp/20135262/
2014-08-25T17:51:13+09:00
2014-08-25T17:51:16+09:00
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ro-shin
京都人権歴史紀行
夫を助けて自ら果てた「おかめ」の塚
京都市上京区にある大報恩寺。釈迦坐像を本尊とするこの寺は安貞元年(1227)の建造で、応仁の乱の災火をまぬがれた京の街に残るもっとも古い寝殿造りの木造です。
この本堂には快慶作の十大弟子像、定慶の銘がある六観音像が祀られていますが、またこの本堂建築に関わった「おかめさん」の物語もこの寺のもう一つのシンボルともなっています。
「おかめ」は本堂造営の棟梁であった長井飛騨守高次の妻であり、かけがえのない柱の寸法を切り誤った夫に、「いっそますぐみをほどこせば・・・」と進言しました。この提言は短く切ってしまった柱の上に組みものを造って飾るというアイデアで、現在も内陣、外陣は組み入り天井いなっていて、柱は桝組で固定されています。「おかめ」の堤案によって難を切り抜けた棟梁の高次は、貴重な木材を生かした建築に成功し同年12月26日に上棟式を迎えることができました。
しかし寺の由緒を記した縁起の書き物には「この日を待たずおかめは黄土に旅立ったのである」と伝えています。今、寺を訪ねる人への案内文には「この日を待たずして妻は自刃して果てたのである。女の提言によって棟梁としての大任を果たし得たということが、世間に漏れ聞こえては・・・(この身はいっそ夫の名声に捧げましょう)」と書かれています。
そして口碑によれば高次は「亡き妻おかめの名に因んだ福面を扇御弊につけて飾り、妻の冥福と大堂の無事完成、永久を祈ったといわれている」とも述べられています。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 著 福田雅子
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大徳寺山門
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2014-08-19T16:10:35+09:00
2014-08-19T16:10:51+09:00
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ro-shin
京都人権歴史紀行
秀吉から切腹を命じられた千利休ゆかりの寺
応仁の乱などで失われた大徳寺の伽藍が、再建事業に着手されたのは文明五年(1473)のことですが、山門が(金毛閣)が連歌師宗長らの奔走によって立柱されたのはこれよりさらに遅れて大永六年(1526)のことでした。しかしこのときの造営は初層だけで、上層は侘茶の大成者といわれる堺の町衆、千利休が私財をなげうって、天正十八年(1590)に完成させ、ここにようやく現在見るような重層構造となったのでした。上層の梁木銘には「檀越(だんのつ)泉南利休老居士修造」とありますが、解体修理の際に発見された棟札には、紹安・少庵など千家一族の名が書かれていますからこの山門修造は千家こぞっての大事業であったことがわかります。
このとき利休は自分の木像をこの上層の中に安置しました。それは利休に感謝した寺側の意向によるものか、利休自身の希望によってそのようなことをしたのかわかりませんが、このことが、天正十九年になって問題にされるのです。この年二月、利休は突然、豊臣秀吉によって切腹を命じられます。
利休は豊臣秀吉政権内でも重要な位置にありました。それで政治の争いの犠牲にされたのではないかとの意見もありますが、切腹の表向きの理由というのは、ひとつは利休が茶器に法外な値をつけて売買した、つまり不正を働いたというものであり、そしていまひとつが、雪駄をはき、杖をついた自分の木像を山門の上層に置いたのは不敬不遜あるというものでした。
大徳寺山門には、秀吉がもとの主君織田信長の菩提所として建てた総見院をはじめ多くの塔頭があり、天皇の使いである勅使や秀吉自身もこの山門を通って参内に入りました。その頭の上に雪駄を履いた利休の像があるわけで、それが不敬不遜にあたるというわけです。山門に木像を置くことは当時でも珍しいことではありませんでしたが、二月二十五日、この木像は堀川の一条戻橋で磔(はりつけ)にされ二十八日、京都の聚落屋敷で切腹した利休の首もここに晒されました。
木像はその後、備前岡山藩の筆頭家老伊木忠澄が邸内の粗堂に祀っていましたが、明治になってから大徳寺に寄付され、利休が安置したもとの場所で、袈裟をかけ、いくぶん微笑みをもったような顔をして、しずかにたたずんでいます。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 著川崎將生
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寂光院
http://pilgrimari.exblog.jp/20092879/
2014-08-14T11:40:47+09:00
2014-08-14T11:40:49+09:00
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ro-shin
京都人権歴史紀行
源平の戦いの犠牲となった建礼門院の住んだ寺
大原にある寂光院は、現在は天台宗の寺であり、草創は聖徳太子との寺伝がありますが中世には尼寺でした。寂光院の名を聞けば思い起こすのは建礼門院徳子です。
徳子は平清盛と時子の娘として生まれました。彼女が高倉天皇の皇后になったのは平氏一族の婚姻政策にもとづくことはいうまでもありません。そして壇ノ浦で平家が義経軍に敗れたさい、二位の尼・時子は八歳の安徳天皇(建礼門院徳子の子)を抱いて海中に沈みます。時子の「波の下にも都はある」の言葉は、後世の人々の胸を打ちますが、けなげな安徳天皇とその人を励ます祖母時子の姿に比べ、徳子のこの場面での描かれ方は対照的です。
『平家物語』によれば、徳子は焼き石と硯を左右の懐に入れて入水しましたが、源氏の渡辺党の一人、源昵(むつる)の熊手に髪を引っかけられ引き上げられます。見ていた女房たちは「浅ましい」と口々に叫んだのでした。
徳子が入水したにもかかわらず生還し、58歳で天寿を全うするまで生きたことに対しては、これまで二様の評価がなされてきました。焼き石も硯も、海底深く身を沈めるための重りとしては軽すぎるものであって、徳子の「鈍さ」をあらわしており、まわりから死ねといわれれば死んでみせる、いわば人形のような女性とみる見方、一方では建礼門院は生き永らえることで安徳天皇の後世を弔い、平家一門の悪行の浄罪をもつとめた、聖職者としての側面を評価しようとする見方、の二つです。 建礼門院のまわりの女房たち、例えば建礼門院右京大夫が、平資盛からの手紙を漉(す)いて写経するなどして、愛人資盛の後生を弔ったように、夫に先立たれた妻が夫の後生を弔う姿は、中世には一般に見られるものでした。
後に、鎌倉武家社会がスタートしてから、後家が亡き夫の菩提を弔い、仏事を修する姿は「貞心」をあらわすものとして、世間一般に高く評価されるようになります。このことは『御成敗式目』にも後家のあるべき姿として記されています。 武士の後家尼ならば夫の死後、夫の所領をあわせて知行し続けるという後半生が待っていたのですが、徳子のような敗者の側の後家尼ともなるとその道は閉ざされており、したがってこのような尼たちは、寂光院のような尼寺で余生を仏道に励みつつ生きたのでした。
徳子がもし生き延びれば夫、子、源氏一族の菩提を弔う役を引き受けるだろうことも予測して入水したとすれば、運命を甘受した、すなおなやさしい女性であったともいえるのではないでしょうか。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 著田端泰子
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耳塚(鼻塚)
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2014-07-29T22:55:00+09:00
2014-07-29T22:55:50+09:00
2014-07-29T22:55:50+09:00
ro-shin
京都人権歴史紀行
江戸時代、京都名所のひとつに大仏殿がありました。もとは豊臣秀吉が発願したものですが、慶長大地震で倒壊し、のちの徳川家康が秀吉の子、秀頼に亡き父追善供養のために再建させたものです。高さ約19m,奈良の大仏におとらない「京の大仏っあん」でした。
ただし、その後度々火災に遭い今は石垣と家康が豊臣家討伐のいいがかりにした「国家安康」の鐘銘を刻んだ釣り鐘が残されているのみです。
さて、その方広寺大仏のすぐ前に、耳塚と呼ばれる墳丘があります。この塚には秀吉が慶長二年(1597)に再度の朝鮮侵略の際に、朝鮮から持ち帰った鼻が埋葬されています。
この秀吉の朝鮮侵略{韓国・朝鮮では壬辰(イムジン)・丁酉倭乱(チョンユウウエラン)という]は全くいわれのない無体無道な戦争でした。中国(大明)へ侵略するための第一歩として16万の大軍を出兵させました。最初の侵略は、朝鮮王国の支援要請を受けて来援した明軍と朝鮮の義兵の徹底抗戦によって、戦局は膠着状態に陥りました。そしていったん講話が成立したのですが、朝鮮の南半分を譲れなどという秀吉の要求と、秀吉を日本国王に封ずるという明国の条件が折り合わず、再び秀吉は大軍をさし向けたのです。 このとき、軍巧のあかしとして、首級(くび)ではなく鼻を削いで日本へ送り届け、秀吉の見聞にのぼせよ、という命令が出ました。
「耳鼻」という報道もありますが、「鼻受取帳」が語るように実際は鼻削ぎだったようです。
「手にさまたぐ者は、悉く切捨てたるか、後は鼻許りを取て命を助る様にと御朱印下されける間、男女をいわず、皆、鼻を斬たり」『吉川家臣略記』
「何も残て有るものを悉くなて切にして、鼻を取、此郡にて討取註文六千也。鼻には塩して一千つつ桶に入、御横目衆へ渡す」『元親記』
「伝え聞く。高麗より耳鼻十五桶上ると云々。即ち大仏近所に塚を築きこれを埋め、合戦日本大利ヲ得ト云々」『義演准后日記』
その数は五万とも十万を下らないとともいわれています。正しくは鼻塚と呼ぶべきこの塚の存在は『負の歴史』の教訓として日本人が忘れてはならないものを示しているといえます。
参考引用掲載 京都人権歴史紀行 仲尾宏著
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