真光寺 (一遍上人・寺宗の本山) |
千百年ほど昔の仁明天皇の時代に恵萼法師という僧があった。法師は、仏教を学びにはるばる中国にわたった。彼は、唐の宋王に会ったが、このとき、宋王は
「はるばるご苦労なことじゃ。恵萼、そなたにこの仏像を授けよう」
と観音さまを一体与えた。
恵萼が帰国するときは、毎日順風がふいて航海もよほどはかどり、瀬戸内海を通って数日で和田沖あいまで帰ってきた。ところが、ここで船はぴたりと止まってしまった。ロやカイで力いっぱいこいでも少しも動かなかった。
「おお、そうか。観音さまののぞんでおられる土地なのだ」
と気がついた恵萼は、この地に寺を建てた。その寺が真光寺のおこりだという。のち建治二年(1276)に一遍上人がこの寺に入り、真光寺は寺宗の本山としてさかえた。一遍上人は正応二年(1289)、この寺でなくなった。
平清盛公勧請 弁財天(真野弁財天)
承安2年(1172)、平清盛公が安芸の国の厳島明神を勧請して祀った七弁財天の一つが当寺にありました。
真野弁財天とよばれて大切に祀られ、人々の信仰を集めていました。しかしながら、神戸多大空襲で真光寺が焼失してしまい真野弁財天もいまはありません。
弁財天はインドの古代神話に登場するサラスバティ(水を持つもの)という神様です。水の流れは芸能とも結びつき音楽の神様としても信仰されています。
真光寺の弁財天は真野弁財天焼失後、インドより招来されました。インドの弦楽器シタールを奏でています。
平清盛公 御膳水の井戸
平清盛公が当寺に弁財天を勧請した時に、僧がこの井戸の水でお茶をたてて献上したと伝えられています。
指定年月日 昭和46年4月1日
所有者・菅理者 真光寺
一遍上人の墓塔で廟所内に東面して建っている。花崗岩製で総高約1.95メートル、基壇は2段積みで、上段の上部には反花座(かえりばなざ)を設けています。台石の上面に軽いむくりをつくり、水輪の上部に穴を設けるなど珍しいつくりをしています。
造立の年代は明らかではありませんが、全体の様式や手法からみて南北朝時代(1336~1392)頃と推定されています。
一遍上人は臨終に際し、我が亡骸(なきがら)は野に捨て獣(けだもの)などに施せ、と遺言しました。しかし、人々の願いによって観音堂前の松の根元で荼毘に付され、廟が設けられたそうです。
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin