能福寺(海を渡った兵庫大仏) |
鎌倉、奈良と並ぶ日本三大仏の一つといわれ「兵庫大仏」がここ能福寺にあることはまだ他府県の人にはあまり知られていない。
延暦二十四年(805)桓武天皇の命により、唐に留学した伝教大使が帰国。兵庫和田岬に上陸した。
庶民は大いに喜び御堂を建てた。大師は自作の薬師如来をこれに安置して国の安泰、庶民の幸福を祈願して、みずから能福護国密寺と名づけたのが寺のはじまりである。
養和元年(1181)二月四日、京の都にて平清盛が六十四歳の生涯を閉じた。かねてからの平清盛の遺言で、当時の住職円実法眼(えんじつほうげん)が全骨を福原に持ち帰り、能福寺にて弔った。現在の境内には公の墓所平相国廟がある。その後暦応四年(1341)南北朝の戦いによる兵火で焼失。慶長四年(1599)明智光秀の家臣長盛法印が伽藍を再建した。
当寺が世界的に有名になったのは、大正四年(1915)南米パナマ運河開通記念万国博覧会(通称サンフランシスコ万博)に大仏像の実物大模型を出品。外国への観光案内として紹介されたことである。
太平洋戦争で出兵した大仏
昭和十九年(1944)五月、戦局が危ぶまれる時期に出された金属回収令により、惜しむ神戸市民に見送られながら、赤だすきをかけた出兵姿で出征。解体供出され、国を守る武器弾薬と変身し戦場に散った。
昭和二十九年(1954)京都東山の月輪御陵に建っていた、歴代天皇の参拝された由緒ある拝殿を本堂として、九条家より拝領移築する。
昭和五十九年戦前の庶民信仰の中心として神戸っ子に親しまれた「兵庫の大仏つぁん」を再建復興しようという声が市民の間で盛り上がることになる。
平成三年、檀徒・市民・企業など多数の協賛により、西村公朝師の監修のもとで半世紀ぶりに大仏尊像が再建され、ふたたび兵庫の町にその巨大な姿を現した。
天台坐主猊下(げいか)をはじめ奈良東大寺官長、鎌倉大仏貫主臨席のもと大開眼法要が挙行された。
平成七年の阪神大震災により、本堂は相当な被害を受けたが総重量六十トンの大仏像はびくともしなかった。
これは設計段階で大事をとって震度7クラスの地震を想定したことが幸いしたのだ。蓮台のコンクリートには核シェルターなどの厚みをもたせ、蓮台から大仏までをつらぬく強靭なステンレスの鉄骨を多数使用していたことで、あの激震でも一ミリたりとも動かなかった。
大仏は瓦礫の山と化した兵庫の町にそびえ立ち、その後の復興における強い心の支えとなった。
また能福寺は、新西国巡礼第二十三番札所、福原西国観音霊場第三十二番札所とされている。
境内には国の重要文化財の指定を受けた十一面観音をはじめ「神戸事件」で無念の自刃を果たした、備前藩士滝善三郎正信の墓もある。
参考引用掲載 大阪神戸のお寺・神社謎とき散歩
著者 中村清
写真 ro-shin