平野城と中勝寺 |
平野一族の祖先、平野備前守忠勝は、播州の豪族赤松則村の家臣であった。郡家の山手に居城をもち、南北朝の動乱時代に武勲をたてた。そののち足利尊氏方について、その弟直義との観応の戦いに敗れたのち、忠勝は考えた。
「もう戦いをしても何もならぬ。無益な血を流すより、城のある御影で田畑を開いて生活をしよう」
こうして一族は、郡家村で農業に従事するようになり、すっかり土地に根をおろした。平野秀満が当主であった永正二年(1505)、彼は祖先の忠勝を弔うため、郡家の夢境庵という寺を菩提寺にして、平野山忠勝寺と改めた。
忠勝寺は、それから250年も後の明和四年(1767)に火災にあった。そののち再建されたときには、平等山忠勝寺と改称されたが、今も阪急御影駅の南方に緑に囲まれて建っている。
平野備前守忠勝は、源頼正の子孫で、正平年間(1346年頃)御影の上の山に平野しろ(御影村城)を構えていた。足利尊氏とその弟との間に起きた観応の戦乱(1351年頃)に巻き込まれて破れた後、郡家村に退いて農業に従事した。
この平野備前守忠勝参墓は、当寺院東側の平野氏旧屋敷内の的場にあった。平成15年(2003)の境内墓地整備に当たり、忠勝子孫の八基と共にこの地に移設したものである。
なお、当寺院の東隣にある水神宮は、文政12年(1829)に私費を投じて住吉川から灌漑用水を引いた忠勝子孫の平野延輝を祀ったものであり、その墓は中勝寺(ちゅうしょうじ)境内本堂の西側にある。
平成15年8月 第26世 藤井大俊・・・・・掲示板より引用
参考引用掲載 神戸の伝説
写真 ro-shin