明石藩主越前松平家と長寿院 |
昭和20年7月6日の空襲により城主の御霊屋とその門は戦災を逃れましたが、諸堂宇焼失しました。その後復旧し、現在定員200名の児童福祉施設保育園を設立し、環境に恵まれた自然を通じての宗教情操教育を行っています。昭和43年5月5日には235坪銅板葺き鉄筋本堂(講堂)の落慶法要を管長親修のもとに厳修し、 昭和45年6月には明石市教育委員会より名所旧跡に指定されました。
もともと城主歴代を祀る御霊屋と門が別にありましたが、戦災により周丸公夫妻の御霊所と門のみが残りました。この御霊屋と門は、木造本瓦葺き入母屋造りの唐破風向拝付きで龍の彫刻が柱間の飾り物と正面向拝にも施され内部は豪華絢爛な内装となっています。このほど市民の熱意により修復され内部には金箔が貼られ、同時に松平家夫人たちの遺品の数々も発見されると共に、寛政年代(180年前)の江戸文化をしのぶ貴重な資料が発見されました。
逸話
かつて幕末の頃、長寿院に福田東州という勤皇僧がいた。そのとき、寺男に身をやつして潜んでいた伊藤博文は明治天皇明石行幸のみぎり最高責任者として再び(明石に行在所浜光寺に)泊まった。その時、伊藤博文は東州を長寿院に訪れ対面を心から喜んだとされる。
最も栄えた時代
当山は松平直明公の菩提所として70石の禄を賜り、二、三、四、五、六、七、八、九代の代々の城主の墓を祀る。住職は明石城登城の祭は、籠にて寺侍を従えた。
最も衰えた時代
城主菩提所の関係で一般の檀家がなかったため、明治維新の際は廃藩置県によって70石の禄が止まり寺は荒廃した。
明石藩主越前松平家と長寿院
明石藩主越前松平氏の祖は直良公です。徳川秀康公の六男であり秀康公の父は徳川家康公の二男で将軍秀忠公の兄であり(尊孫)直良公は寛永六年越前木本城主、正保元年越前大野城主となり 直良公の母の法号を長寿院という、母の菩提を供養するために越前木本に長寿院を建立した。天和二年播磨明石へ転封され、長寿院も明石へ移されました。寺の山号「松厳山」は直良公の法号であす。
長寿院は明石藩主越前松平家菩提山であり、二代直良公から九代斎宜公までの墓と夫人子息等家族の墓がある。昭和二年九月幡隋院 大増寺より改葬されたものも含んでいます。御霊屋と門のあるのは徳川将軍家斎公二十五男の九代斎宜公です。寺紋も徳川三つ葉葵のご紋を受け賜っております。
参考引用掲載 長寿院HP
写真 ro-shin