村山たか女 長野主膳の愛人 |
三条大橋に生きさらしにされた村山可寿江の図
「幕末天誅絵巻」より(霊山歴史館蔵)
たか女は体に食い込む綱の痛みに耐えた。三条大橋の橋柱に縛り付けられて三日三晩、小柄な彼女の体を、旧暦十一月の真冬の川風が凍りつかせた。
柱にはたかの”罪状”を記した”捨札”が掲げられていた。
「此女、長野主膳(ながのしゅぜん)妾として・・・」
安政五年(1858)以来、主膳
の悪巧みを助け大胆不敵の仕業をすすめ、許すべかざる罪科を犯した女である捨札はこう決めつけ
「其身女たるを以、面縛の上、死罪一等滅じ」と女の身にはもっともむごい”生きさらし”の刑に処した理由を述べていた。
たかを捕えたのは、長州、土佐の激徒たちである。京の尊王攘夷派の志士や公家たちに大弾圧を加えた安政大獄の演出者、大老井伊直弼はすでに二年前、万延元年(1860)三月三日、江戸桜田門外で水戸浪士らに襲われて横死している。その直弼の死後、京にはテロの旋風が吹き荒れた。梅田雲浜(うんぴん)ほか大獄の犠牲者たちを断頭台に送った大老配下の者たちへの尊攘派側により報復である。
桜田の変から二年。文久二年(1862)七月には幕府側に立っていた九条関白家の家士、島田左近が殺され、その首が四条大橋北1丁目の河原にさらされた。翌八月には彦根で主膳が藩命により斬られた。
その天誅の風が、たか女の身辺に及んだのは主膳の死から三ヶ月後、同年十一月十四日の夜である。洛西一貫町のたか女の隠れ家をおそった三十人の激徒は、彼女を捕え橋柱に縛り付けた。その翌日、彼女の一子、多田帯刀(たてわき)も三条河原におびき出され、粟田口で斬られた。首は刑場の木に吊るされた。子の死はさらされたたか女にも直ちに伝わっただろう。
直弼・主膳・帯刀・・・自分よりも若くそれぞれに肉体と血によって結ばれていた、これら三人の男たちの相次ぐ非業の死は、たかから生きるすべての力を奪った。「死罪一等滅じ」と記された札の下で生きさらしの彼女は死をこそ望んだだろう。それでも死ぬことのできない自分の命の強さ・・・生きねばならないおのれの業の深さを、五十三歳のたか女はそのとき呪っていた。
悲運結んだ赤い糸
直弼の兄、十二代彦根藩士、井伊直亮(なおあき)ほか、金閣寺の僧、その坊官多田某・・・など、多彩な男性遍歴をたどらねばならなかったたか女だが、彼女の生涯を決めた直弼、主膳の二人とは、その生い立ちから相似た”運命”を分け合っていた。
彦根第十一代の藩主、井伊直中(なおなか)の十四男坊に生まれた直弼が十七歳から三十二歳まで十五年、わずか三百俵の扶持(ぶち)で自ら名付けた埋木舎(うもれぎのや)に、その青春と人生を埋めねばならなかったのは、今さら言うまでもない。
一方直弼と同い年の主膳は、その妻の墓に「初代長野主膳」と刻まねばならなかった男である。”初代”すなわちその祖先を名乗ることもならず、父祖の存在を我が手で彼は否定した。あるいは西国の名門の出といい、また幼い頃母に見捨てられたとも語られ、二十五歳までの前半生が全く謎のまま残る彼の生い立ちの秘密を、それは暗示するかのようだ。
たか女の出生も、またこれに変わらない。しばしば言われる一つは近江犬上郡の多賀大社の社僧と彦根尊勝院の長老と同大社・般若院の娘との間の子、ともいう。ただいずれにも一致するのは、幼い彼女が父と呼べなかった、ということだ。僧籍の身のため世間をはばかった父親は、たかを養女に出した、と語られる。彼女もまた待ち望まれた子ではなかった。
だが、主膳、直弼・・・三人をやがて結びつけたいくつかの理由のうち、一つにはいずれも背負わねばならなかった生い立ちの重いうめきがあったかもしれない。あるいはそれこそ、動乱の時代に運命を共にした三人を結ぶ一筋の赤い糸だったのかもしれない。
遍歴の終章は幕末のスパイ
「色の白い小柄で面長な美しい姿」(土佐藩士・依田珍麿)だったかは、ひたすらな生き方の女だった。彼女のことを語ったと推定されている直弼の手紙がある。それは嘉永四年八月四日付。兄の死によって埋木舎の時代には思いもよらなかった彦根藩士の地位についた翌年、彼の三十七歳の手紙である。もはや何の心の隔たりもない腹心、長野主膳にあてるその文面で、直弼は「極密内々尋申候」・・ごく内密で話したい、と書き起こし、
かの婦人(たか女)はどうしているか。彼女はいったいに心得がよくなく、かって自分が関わりを持ったことで今ではひたすら後悔しているが・・・と筆を進めていく。
直弼の非難がましい口調にさらされているたか女だが、二人の出会いのはじめは兄、直亮の侍女だった彼女が、埋木舎にあった不遇の直弼を訪ねるうち結ばれたともいわれる。五歳年長のたか女の恋は未来が閉ざされていた時代の直弼に注がれたものだった。
それがやがて十余年の後。彦根三十五万石のトップの座に昇りつめた時、直弼はこの過去の多いたか女との関わりを”汚名”とまで言い切るようになる。「世間へもれ候ては一大事」と書く直弼はその昔たかを向かい入れた埋木舎の彼ではなかった。七年後に安政の大獄で示される権力主義者へと変身しつつある彼だった。
それでもたか女は、直弼を裏切ることはなかった。安政五年(1858)、四十四歳で直弼が大老の位に就き、将軍家跡継ぎと日米修好通商条約の調印問題をめぐり、水戸や京への反対派への弾圧を開始したとき、たかは主膳とともに彼の手足となった。
同年八月、京に入った長野主膳と前後して、同じく入洛した彼女は「言語道断実に神州一の大逆此上有べからざる者」と、梅田雲浜らからののしられた主膳と行動を供にし、志士・公家らの情報収集、主膳と九条家の島田左近との間のレポ(連絡)役などに当たった。
そのころ京には彼女のことを、昔、御所の官女に仕え、先代彦根藩主に仕えるうち主膳と密通、いわば京に駆け落ちした者とのうわさが流れていた。
しかしそんな風聞とは別に、宝鏡寺の茶室で、あるいは祇園の茶屋で情報を交わすひとときのうち、危険なスパイ活動に従う二人の間で最後の恋があったとしても不思議ではない。
だがたか女のひたむきな動きも二年で終った。直弼の死である。思いを寄せた男性、またわが子と身辺に多くの死を見ながら、それでも一人生きねばならなかった彼女は、三日三晩の生きさらしから解き放たれた後、洛北・一乗寺の金福寺を最期の地にした。
妙寿尼と名をかえ、同寺に入った彼女は、六十歳をはるか超えるまで生き続けねばならなかった。自分の幸福と不幸の根源が、生まれ年の巳の”宿命”にあることを見たかのように、彼女はそれをかたどった品々を残している。
生涯、自分が背負わされた人生とひたむきに戦い抜いてきた中に、伝説の世界で知恵と生命力の力を表すとされる"巳”は、まことにふさわしいシンボルだったかもしれない。
参考引用掲載 京に燃えた女 著書 堀野 廣