2014年 03月 24日
静御前 源義経の愛人 |
義経に捧げた哀切の舞
壇ノ浦に平家が滅んだ翌年、文治二年(1186)の四月八日、鎌倉の源頼朝は妻、政子とともに鶴岡八幡宮に参った。
この日の参拝は、ひとつには捕われの静を召し、社前での舞を命じるためだった。
静をこよなく愛した義経は昨年来、兄、頼朝と仲違いし弁慶らわずかの供を連れ、追われる身を地下に隠した。彼に従った静が吉野山中で捕えられ、母、磯の禅師ともども鎌倉に護送されてきたのはほんの一ヶ月ほど前、同年三月一日のことだ。
頼朝の家人、安達新三郎の屋敷に預けられた静は、義経の行方について厳しく問われた。しかし、深雪の吉野で別れた彼女が何を知ろう。「山伏姿で、大峯の山中に向かわれたよう・・・」答える彼女は、また京での取り調べの返答との食い違いを激しく攻められるのだった。
静は、都で知られた白拍子(しらびょうし・歌舞)の名手である。
調べとは別に、舞を披露せよ・・・との命令が彼女に再三くだされた。だが、義経のためにこそ舞い歌っても今や敵となった鎌倉殿に見せようため、舞う気持ちは静にはさらさらなかった。それは女の意地でもあった。と同時に貴族の娘たちに見られぬ芸に生きる女の強さだった。
彼女が拒めば拒むほど、静の舞への執心は高まった。”天下名仁(名人)”といわれる静。「彼女を京に帰すまでに、ぜひその舞姿を見たい」と頼朝に迫ったのが政子である。天下の権を握った頼朝も、これまで命がけで自分に尽くしてくれた世話女房、政子には弱い。「舞え!」との厳命に、すでにただならぬ身となった静も覚悟を決めた。
”てぃ・とぅ・てぃ・とぅ”・・・八幡宮に響く典雅の鼓の音は工藤祐経(すけつね)の手。高く澄んだ銅拍子を打ち鳴らすのは畠山重忠。いずれ武勇の士である。高低二種の音に乗って舞はじめた静は、白雪の袖を翻し歌った。
吉野山 峯の白雪 踏み分けて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
もう彼女には眼前の回廊にすわる頼朝夫妻の姿も映らなかった。胸中にほとばしるのは昨冬十一月雪の吉野で別れた、”逆賊”義経の面影だけである。かって京の六条堀川、源氏の堀川館で舞ったごとく、静はひたすら幻の義経のため舞った。彼の子を宿した六ヶ月の身重とは想えぬ軽やかさで・・・。瞬時、彼女の脳裏には京のこと、吉野のことが・・・明滅した。
雪の吉野で永遠の別れ
源平合戦最大の殊勲者、義経が一転、頼朝に追われ都を落ちたのは文治元年十一月三日である。
兄弟対立の背景には奥州の豪族、藤原秀衡(ひでひら)あるいは後白河法皇と義経との結びつきに対する頼朝側の疑惑があった。しかし彼らの二人の生い立ちも、不幸を呼ぶ一因となった。平治の乱で父、義朝を失い、十四歳で伊豆に流されて以降二十年、流遇の境にあった頼朝は、不安な身を生き延びるため極度に神経を研ぎすまさねばならなかった。当然、おおらかな人を許す性は生まれようがなかった。権力を得たとき、肉親とはいえ兄を無視する京での義経の振る舞いは、頼朝には見過ごせなかった。二人の間で鎌倉ー京都の距離はことのほか遠かった。しかも弟は兄をおびやかすに足る戦上手。”義経を討て”文治元十一月、秘命を受けて鎌倉から京に上った土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)は義経の居館、堀川館を襲った。
静は当時、つねに義経の身近にいた。彼女の機転で夜討ちを知った義経は土佐房六十騎の軍勢を打ち破ったが、それは凍り付いた兄弟の仲の終わりを告げるものだった。義経追討の軍は東から都に迫る。義経はわずかの手法で翌十一月、都を落ちた。その時、勝運は義経からもはや去っていた。大物の浦(尼崎市)から九州へとこぎ出した船は暴風に打ちのめされ、元の陸地に吹き付けられた時、義経に従うのは武蔵坊弁慶ら四人のみ。その一人に静がいた。
雪の吉野の逃避行では、ついに静は足手まといだった。乏しい家来をさいて彼女につけ、宝を与えた義経は「必ず会おう」再会を固く約束して都に帰るように静かにつげ、山中に消えた。だが落ちぶれていく身に、人の心はいっそう冷たい。形見の宝は付き添う家来どもに奪われ、打ち捨てられた静はこの月十七日の夜十時過ぎ、山中の蔵王堂にたどりつく。吉野の"悪僧”どもは彼女を捕まえ、そのあげく鎌倉送りだった。
彼女がすでに身ごもっていたことは先に書いた。調べを終えた鎌倉方は静母子を京に帰すことについて、一つの条件をつけた。”産生之後”すなわち産を終えた後に、と言うのだったが、その中身はきわめて過酷な定めを彼女に負わせたものだった。
源氏が累代の本拠地としていた堀川館が義経・静の京での住まいとなっていた。現在の下京区堀川通六条付近であったと伝わる。義経が兄頼朝に追われてから取り壊された。佐女牛井(さめがい)は堀川館の庭にあった井戸で洛中でも有数の名水とされた。その後、茶人の村田珠光が茶の湯に用いたといわれる井戸は今はなく、静が義経と館で過ごした痕跡は全く姿をとどめていない。ただ、石碑が堀川通五条下ル西側歩道に人知れず残されているのみ。
愛の結晶も波間に
吉野別離の日からもう半年が近い。鶴岡八幡宮の社頭に舞う静はさらに一曲を歌い、最後の和歌を吟じた。
しづやしづ 賎(しづ)のをだまき 繰り返し
昔を今に なすよしもがな
取り返すすべもない義経との日々を懐かしむ思いが哀調の声となってあふれ出た。「誠ニ是レ社壇ノ壮観、梁塵ホトンド動クベシ」(『吾妻鏡』)
無骨な鎌倉武士たちも静の姿に酔った。だが、よりとも一人は激怒した。
「源氏の守り本尊、八幡社前での舞。関東万歳をこそ歌うべき反逆者を慕うとは」
静の危機を救ったのは、その昔、流人・頼朝への愛にすべてをかけた政子だった。彼女には静の心が染み入った。
「あの歌にこそ女の真心が」
さまざまに説く政子に頼朝の怒りも和らいだ。この年閏七月二十九日、静は男子を産んだ。義経の子である。だが彼女の帰路に付けられた条件、それは「生まれた子が女なら母に、男ならただちに命を絶つべし」との内容だった。
生まれたばかりのわが子を、使者に渡すまいと厚く衣に包んで泣き叫ぶ静。しかしその手からついには奪われた。いとけない子は由比浜に捨てられた。静にはすべてが終った。
やがて九月十六日、静は母ともども鎌倉をたった。京に帰った静は嵯峨の草庵にこもったが、翌年二十歳の秋、胸につもった悲しみのためこの世を去った。・・・ある本にはこう伝えている。由比浜に眠る子の一周忌に近いころだった。
義経はその翌々年、文治五年(1189)閏四月の末、奥州・衣川館で死んだ。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野廣
静 上村松園画 東京国立近代美術館蔵
写真 ro-shin
壇ノ浦に平家が滅んだ翌年、文治二年(1186)の四月八日、鎌倉の源頼朝は妻、政子とともに鶴岡八幡宮に参った。この日の参拝は、ひとつには捕われの静を召し、社前での舞を命じるためだった。
静をこよなく愛した義経は昨年来、兄、頼朝と仲違いし弁慶らわずかの供を連れ、追われる身を地下に隠した。彼に従った静が吉野山中で捕えられ、母、磯の禅師ともども鎌倉に護送されてきたのはほんの一ヶ月ほど前、同年三月一日のことだ。
頼朝の家人、安達新三郎の屋敷に預けられた静は、義経の行方について厳しく問われた。しかし、深雪の吉野で別れた彼女が何を知ろう。「山伏姿で、大峯の山中に向かわれたよう・・・」答える彼女は、また京での取り調べの返答との食い違いを激しく攻められるのだった。
静は、都で知られた白拍子(しらびょうし・歌舞)の名手である。
調べとは別に、舞を披露せよ・・・との命令が彼女に再三くだされた。だが、義経のためにこそ舞い歌っても今や敵となった鎌倉殿に見せようため、舞う気持ちは静にはさらさらなかった。それは女の意地でもあった。と同時に貴族の娘たちに見られぬ芸に生きる女の強さだった。
彼女が拒めば拒むほど、静の舞への執心は高まった。”天下名仁(名人)”といわれる静。「彼女を京に帰すまでに、ぜひその舞姿を見たい」と頼朝に迫ったのが政子である。天下の権を握った頼朝も、これまで命がけで自分に尽くしてくれた世話女房、政子には弱い。「舞え!」との厳命に、すでにただならぬ身となった静も覚悟を決めた。
”てぃ・とぅ・てぃ・とぅ”・・・八幡宮に響く典雅の鼓の音は工藤祐経(すけつね)の手。高く澄んだ銅拍子を打ち鳴らすのは畠山重忠。いずれ武勇の士である。高低二種の音に乗って舞はじめた静は、白雪の袖を翻し歌った。
吉野山 峯の白雪 踏み分けて
入りにし人の 跡ぞ恋しき
もう彼女には眼前の回廊にすわる頼朝夫妻の姿も映らなかった。胸中にほとばしるのは昨冬十一月雪の吉野で別れた、”逆賊”義経の面影だけである。かって京の六条堀川、源氏の堀川館で舞ったごとく、静はひたすら幻の義経のため舞った。彼の子を宿した六ヶ月の身重とは想えぬ軽やかさで・・・。瞬時、彼女の脳裏には京のこと、吉野のことが・・・明滅した。
雪の吉野で永遠の別れ
源平合戦最大の殊勲者、義経が一転、頼朝に追われ都を落ちたのは文治元年十一月三日である。
兄弟対立の背景には奥州の豪族、藤原秀衡(ひでひら)あるいは後白河法皇と義経との結びつきに対する頼朝側の疑惑があった。しかし彼らの二人の生い立ちも、不幸を呼ぶ一因となった。平治の乱で父、義朝を失い、十四歳で伊豆に流されて以降二十年、流遇の境にあった頼朝は、不安な身を生き延びるため極度に神経を研ぎすまさねばならなかった。当然、おおらかな人を許す性は生まれようがなかった。権力を得たとき、肉親とはいえ兄を無視する京での義経の振る舞いは、頼朝には見過ごせなかった。二人の間で鎌倉ー京都の距離はことのほか遠かった。しかも弟は兄をおびやかすに足る戦上手。”義経を討て”文治元十一月、秘命を受けて鎌倉から京に上った土佐房昌俊(とさぼうしょうしゅん)は義経の居館、堀川館を襲った。
静は当時、つねに義経の身近にいた。彼女の機転で夜討ちを知った義経は土佐房六十騎の軍勢を打ち破ったが、それは凍り付いた兄弟の仲の終わりを告げるものだった。義経追討の軍は東から都に迫る。義経はわずかの手法で翌十一月、都を落ちた。その時、勝運は義経からもはや去っていた。大物の浦(尼崎市)から九州へとこぎ出した船は暴風に打ちのめされ、元の陸地に吹き付けられた時、義経に従うのは武蔵坊弁慶ら四人のみ。その一人に静がいた。
雪の吉野の逃避行では、ついに静は足手まといだった。乏しい家来をさいて彼女につけ、宝を与えた義経は「必ず会おう」再会を固く約束して都に帰るように静かにつげ、山中に消えた。だが落ちぶれていく身に、人の心はいっそう冷たい。形見の宝は付き添う家来どもに奪われ、打ち捨てられた静はこの月十七日の夜十時過ぎ、山中の蔵王堂にたどりつく。吉野の"悪僧”どもは彼女を捕まえ、そのあげく鎌倉送りだった。
彼女がすでに身ごもっていたことは先に書いた。調べを終えた鎌倉方は静母子を京に帰すことについて、一つの条件をつけた。”産生之後”すなわち産を終えた後に、と言うのだったが、その中身はきわめて過酷な定めを彼女に負わせたものだった。
源氏が累代の本拠地としていた堀川館が義経・静の京での住まいとなっていた。現在の下京区堀川通六条付近であったと伝わる。義経が兄頼朝に追われてから取り壊された。佐女牛井(さめがい)は堀川館の庭にあった井戸で洛中でも有数の名水とされた。その後、茶人の村田珠光が茶の湯に用いたといわれる井戸は今はなく、静が義経と館で過ごした痕跡は全く姿をとどめていない。ただ、石碑が堀川通五条下ル西側歩道に人知れず残されているのみ。

愛の結晶も波間に
吉野別離の日からもう半年が近い。鶴岡八幡宮の社頭に舞う静はさらに一曲を歌い、最後の和歌を吟じた。
しづやしづ 賎(しづ)のをだまき 繰り返し
昔を今に なすよしもがな
取り返すすべもない義経との日々を懐かしむ思いが哀調の声となってあふれ出た。「誠ニ是レ社壇ノ壮観、梁塵ホトンド動クベシ」(『吾妻鏡』)
無骨な鎌倉武士たちも静の姿に酔った。だが、よりとも一人は激怒した。
「源氏の守り本尊、八幡社前での舞。関東万歳をこそ歌うべき反逆者を慕うとは」
静の危機を救ったのは、その昔、流人・頼朝への愛にすべてをかけた政子だった。彼女には静の心が染み入った。
「あの歌にこそ女の真心が」
さまざまに説く政子に頼朝の怒りも和らいだ。この年閏七月二十九日、静は男子を産んだ。義経の子である。だが彼女の帰路に付けられた条件、それは「生まれた子が女なら母に、男ならただちに命を絶つべし」との内容だった。
生まれたばかりのわが子を、使者に渡すまいと厚く衣に包んで泣き叫ぶ静。しかしその手からついには奪われた。いとけない子は由比浜に捨てられた。静にはすべてが終った。
やがて九月十六日、静は母ともども鎌倉をたった。京に帰った静は嵯峨の草庵にこもったが、翌年二十歳の秋、胸につもった悲しみのためこの世を去った。・・・ある本にはこう伝えている。由比浜に眠る子の一周忌に近いころだった。
義経はその翌々年、文治五年(1189)閏四月の末、奥州・衣川館で死んだ。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野廣
静 上村松園画 東京国立近代美術館蔵
写真 ro-shin
by ro-shin
| 2014-03-24 15:03
| 京に燃えた女
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