百合女 祇園社水茶屋の養女 |
貧乏浪人を愛した女
祇園社のほとり、梶女の”歌人茶屋”は養女の百合が引き継いだ。百合もまた厚化粧の嫌いな楚々と下風情の女だった。
水茶屋の家業の合間彼女の楽しみは母から手ほどきを受けた歌だった。
その同じころ、真葛ヶ原(まくすがはら)の一隅に細々と暮らす武士がいた。姓を徳山という。彼は元、幕府直参の武士だったが理由あって江戸を離れ、京の片隅でわびしい一人暮らしだった。
彼、徳山は侍らしいすっきりした男だったが人柄のさわやかさだけでは食べてゆけない。若い彼は三度の食事にも事欠く困窮ぶりだた・・。
この徳山を選んだのが言い寄る男も多かった百合である。彼女は金や地位を後光のようにした男たちを振りこの貧乏人に添った。百合は心を傾け夫の身の回りを世話した。十年は瞬く間だった。二人の間には可愛い一人娘も生まれた。「情好益篤」夫婦の仲はますます熱かった。
夫は幼い娘(町といった)を抱き上げ、その真っ赤なほおにほおずりした。貧しいが、だれに気兼ねも入らない親子三人の伸びやかな暮らしだった。
夫の出世願い今生の別れ
その幸せを破ったのが江戸からの使者だった。使いは一通の手紙をたずさえてきた。それには徳山の本家が絶え、親族会議の結果、夫がその跡継ぎに決まったとあった。
夫は江戸へ帰らねばならない。侘しい浪々の身から一躍、幕府直参に返り咲ける訳だ。再び世に出る願ってもない機会だ。夫は承諾した。だが彼は「清爽の人」だ。江戸へ帰れるからと行って糟糠の妻と子を見捨て、一人東海道を下ろうとする男ではない。
「ともに帰ろう」
百合に語った。しかし彼女は夫の言葉を拒んだ。
「あなたはいま晴れて故郷へ帰ることができます。もしそのとき、私といっしょに帰ったなら、おそらく人々はあれこれと指差し、あなたの将来の妨げになるでしょう。ですから・・・」
身分を絶対視した封建時代下、水茶屋を営むわが身を卑下し夫を思う百合の悲しい心情だった。だが夫は重ねて言った。
「さすらいの身の自分が、今日まで世にあることができたのもすべてそなたの力によるもの。それがいま、たまたま富貴の身になれたからと言って、苦労をかけたそなたを残してゆくことにどうしてたえられよう」
「わたしには過分な愛でした。それに江戸へお帰りになればあなたはしかるべ所から正式の妻も迎えねばなりますまい。仮に哀れんでわたしを側室にしてくださっても必ず家中に風波が起こり、ひいてはあなたへの煩いにもなりましょう。この十年の情けを抱いて私はこの地で生きてゆきます」
百合の固い決意に夫もそれ以上強いなかった。ただ、この娘だけはそなたの代わりに・・・と、町を連れることを求めた。だがそれでは百合が耐えられない。
「あなたにはまだ未来があります。新しい人を得て、幸せを味わうこともできましょう。でも私はもう二度と夫を持たず、この茶屋を守る決心です。頼りはこの幼い人ばかり。町がいなければ、どうやって日を過ごせましょう」
涙を含んだ妻の声に娘を百合のもとに残し、夫は江戸へ去った。一人になった百合は町の成長が唯一の楽しみだった。彼女はしばしばこの養女に言い聞かせた。
「あなたの父は武士です。決して自分を軽んじ、卑しんではなりません」
百合もまた心の誇りは失わない女だった。
娘に語る輝く思い出
百合の生涯の出来事は、彼女の死からほぼ二十年後に生まれた江戸後期の文化史家、頼山陽の『百合伝』が伝えるものだ。山陽の目に映った百合の姿は、封建のモラルに忍従しながらもそれに押しつぶされない潔い女性である。
別に百合がじかにその心情を語ったものがある。江戸で吉宗が将軍だった亨保十二年(1727)に版になった彼女の家集『佐遊李葉』(さゆりば)の歌である。その”巻下”『恋部』三十首はほとんど独り住まいの寂しさを詠んでいる。
うきしづむ 身こそつらけり 恋ひわぶる
なみだの河の 深き淵瀬に
春のよは軒もる月の かげだにも
なみだのかすむ ひとりねのとこ
いずれも「寄河恋」「春夜恋」のテーマに従う”題詠”だが、そこにはやがて女一人生きなければならない事を予感した、彼女の孤独が自らにじんでいる。
ある年の冬、江戸に去った夫から思いがけない便りがあった。和歌の浦、熊野に旅したらしい夫は、時ならぬ南国の野山を埋めた雪景色の様子を手紙に面白くつづってきた。
さっそく百合は「告こすを聞ぞうれしき熊のの・・・」返事の歌を詠みながら、あの日以来会うことのない夫を思い、京に暮らした父の日々をあらためて娘に語り聞かせた。
百合が一つだけの葉かげのツボミのように大切に育ててきた一人娘、町ももうヒメユリの花のような乙女に成長した。彼女の心がかりは今、この町の将来だけだった。娘には、わが身のような別離の悲しみを味合わせたくはない。
このころ祇園社近くの道端にムシロを敷いて、自作の書画を売る無名の貧乏画家がいた。世の人は彼をこじき同然に軽んじたが、百合はこの青年が持つ天分の画才を感じ取った。
苦労を経て、なお偏見に曇らされない百合の澄んだ目が、泥まみれの天才を見抜いた。灰の中のダイヤモンドのような。
彼女はやがて、町をこの無名の画家に嫁がせた。青年は後の池大雅(いけたいが)、江戸中期の偉才であり町はその妻、玉瀾である。
金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)承安五年(1175)比叡山を下りた法然上人が初めて草庵を結び念仏道場を開いたという。幕末には会津藩が京都守護本陣を置いたことで知られる。会津藩士の墓など幕末に散った人々が供養されている。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野廣
写真 ro-shin