西本願寺 太鼓楼 |
慶応元年(1865)、勤王派の動きを牽制するため、幕府は、新選組屯所を手狭になった壬生から西本願寺に移した。新選組は境内北側にあった北集会所を屯所本拠とし、太鼓楼でも寝泊まりした。現在きた集会所の建物は、兵庫県姫路市の本徳寺本堂として移築され、太鼓楼が当時のままの姿をとどめている。ちなみに本徳寺本堂の柱には当時の刀傷も残っているとか。
西本願寺での新選組の行状は、境内で大砲や小銃の発射訓練をして参拝人の肝を冷やしたり、神聖な寺域での斬首や切腹、苛烈な取り調べなど、広如上人に「断極刑場にことならず実に極楽に地獄」と言わしめたほどであったという。
さすがに発砲訓練は中止したようだが、多くの怪我人や病人が呻いており、男所帯で不衛生、粗暴な振る舞いも多いなど、数々の圧迫にたまりかねた西本願寺は、新選組に移転してもらうべく、不動堂村に一町四方の土地を買い、屯所として新選組の望み通りの広大で立派な屋敷を建てる。巨大な財力と力を誇る西本願寺とはいえ、新選組を追い出すために随分大変な思いと散在を強いられたわけである。そして慶応三年(1867)6月、新選組は第3の屯所、不動堂村に移転した。
参考引用掲載 新選組と幕末の京都 出版㈱ユニプラン
写真 ro-shin