2014年 05月 07日
蛤御門 今も残る「禁門の変」の痕跡 |

開かずの門だったが江戸時代中期の大火(天明の大火・1788)によって、それまで閉じられていた門が初めて開かれたことから「焼けて口開く蛤」とたとえられて蛤御門と呼ばれるようになった。
元治元年(1864)7月19日、先の「8月18日の政変」で政局の中枢を追われ、「池田屋事件」で多くの人材を失った長州は政局の主導権を再び握ろうとして軍事行動に出た。これが「禁門の変」ある。
京都に押し寄せた軍勢は伏見・天王山・天龍寺に陣を構え、天王山、天龍寺組が御所に到達し、激しい戦闘が行なわれた。ここ蛤御門はもっとも激戦地で、砲弾が飛び交い修羅場とかした。圧倒的多数を誇る会津・薩摩を主力とする幕府軍に、奮戦むなしく長州は惨敗した。戦闘は一日で終ったが、この戦いであがった火の手は風にあおられ、三日三晩燃え続けたという。洛中の三分の二を焼き尽くし、のちに「どんどん焼け、鉄砲焼け」と呼ばれるこの火事で京都市民は莫大な被害を受けたのである。御所を武力で占拠しようとした長州藩が、薩摩藩・会津藩・桑名藩・新選組などの連合軍に敗れることとなったこの戦いは幕末動乱の大きな転機となった。
参考引用掲載 新選組と幕末の京都 京都歴史ウォーキング
写真 ro-shin
by ro-shin
| 2014-05-07 13:12
| 新選組と幕末の京都
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