森盲女(しんもうじょ) 一休禅師の愛人 |
森女は一休和尚の晩年彼の側に寄り添った女性である。70歳をはるかに超えた老禅師の愛人だった。
森侍者(しんじしゃ)また森盲女(しんもうじょ)とも呼ばれた。彼女は目の見えぬ者だった。その森女の面影を伝える絵姿が今に伝わっている。
朱色の小袖を着た彼女は、白い打ち掛けを身体の周囲に巻きつけるようにして座っている。傍らには鼓とツエ。両眼はひっそりと閉ざされているが豊かなホオがその人柄の優しさを語りかける。だが彼女の生涯を告げるものはほとんど残されていない。わずかにこの絵と、一休禅師がその詩集『狂雲集』中の十いくつかの詩で「一代風流之美人」と、玉のようにいとしんだ森女のことを語っているばかりである。
(大徳寺)
「憂きもひととき、嬉しさも、思ひませば夢候よ」
ほかに彼女の歌うのは当時はやりの”艶歌”だった。
時代はまさに下克上の盛りである。各地に一揆は相次ぎ、家来は主人を殺した。3年前に応仁の乱が始まり相国寺(しょうこくじ)等の京の大寺が炎上、洛中の酒屋数百軒も焼かれた。兵火は山城の薪村(現・京田辺市)の一休さんの寺、
まで迫った。戦乱を避け奈良・大阪を転々とする。一休和尚の聞いたのが彼女の歌だった。薬師堂で出会った盲女こそ森女だったろう・・・。
下克上乱世の時代というのは無秩序の支配する世だが、反面旧制度を打ち破ろうとするエネルギーに満ちた時代でもある。しかし、いずれにせよ世が乱れるとき、まっ先に苦しむのは力弱い者たちだ。盲目の彼女が歌う愁いを帯びた調べは、乱世の女の苦しみを告げ”毒気”に満ちた和尚のはらわたに染みとおった。
見えぬ目で優しさ見抜く
この時一休和尚は77歳。喜寿の年である。それでも行いすました高僧の風ではなく頭髪はぼうぼう、顎には無精ヒゲが伸び放題。老いてなお、不敵な面魂だった。だが森女も諸国を回りすでに40歳を超えていた。それに盲女であるだけいっそうに心の目、人の真実を見抜く力は鋭い。
かねて世間の”風変わりな大徳”とのうわさに一度は相見たいと念願していた彼女だ。見えぬ目の眼前に一休和尚の訪れを知った時、イガグリのようにとげとげしい姿の内側にある一休の心の優しさ、森女はいち早く知った。
翌年の春、住吉で再会した日、
「その気があればそばに来い」一休和尚の言葉に彼女が即座に従い、薪の里で共に暮らすようになったのもそのためだった。和尚も森女との日々に再び若さがよみがえるのを感じ、大満悦だった。
木は凋み葉は落ちて更に春を回(かえ)す
緑を長じ花を生じて旧約新たなり
森也(しんや)が深恩もし忘却せば
無量億劫畜生の身
(真珠庵)
「謝森公深恩之願書」と題した詩をつくる、手放しののろけようだった。
この一休の振る舞い。いかにもなまぐさ坊主風にも見えるがそのうちにこそ一休禅師の真骨頂がある。頓知話の一休さんは機転の利いたひょうひょうとした存在だが、現実の一休宗純はとてもそんな生易しい姿でない。兄弟子には激しく噛みつき、肉食、飲酒、遊里に出没する”破戒無慙”な僧である。
彼が生まれたのは応永元年(1394)。半世紀にわたった南朝北朝の争いにやっとケリがついた二年後のことだった。一休の母は、破れた南朝方の貴族の出といわれる。後小松天皇に愛され身ごもった彼女だが、しかし天皇を害しようとたくらんだ、との中傷の犠牲になり、宮中を追われ嵯峨の民家でようやく子を生んだ。その”皇子”が幼名を千菊丸と呼ばれた一休だった。
後年、彼が容易に人を許そうとしない狷介(けんかい)の性を示すのも、高貴の身に生まれながら受け入れられなかった、出生の事情に大いにかかわりがあるのかもしれない。
六歳で寺に入った少年は、22歳厳しい教えで知られた江州堅田の大徳寺派のてらへ、禅興庵に住む華叟宗曇(けそうそうどん)の門に入った。27歳、カラスの声に大悟したーと伝わる一休だが、その後の歩みは決して悟りすましたような物静かな人生ではなかった。
狂雲面前 誰か禅を説く
三十年来 肩上(けんじょう)重し
一人加担す 松源(しょうげん)の禅
(真珠庵)
「養叟の子孫 禅を知らず」
「山林は風気 五山は哀ふ ただ邪師のみあって正師なし」等々と。
その一方「他日君来って もし我を問はば、魚行酒肆(ぎょこうしゅし)また淫坊」、我は酒屋や遊里にと、彼の風狂は年とともにさらに激しさを増す状態だった。
だが彼が狂わねばならなかったのは、金で"悟り”の便を売るような同時代の堕落した僧界に、激しい批判の矢を射るためだった。自らの狂態を隠すことなくさらけ出し人間の実相を取り繕った人びとの前に突きつけ、彼らの偽りを暴くためだった。
この物狂おしい生涯を生きた一休の人生に、最後の花を飾ったのが森女である。
森女が一休のもとに来てから十年間ほど二人の仲は続いた。とはいえ、和尚は忙しい体だ。勅命を受けた大徳寺第四十八世の住持にもなれば、あるいは諸国を巡歴、焼失した大徳寺の再興に力を尽くさねばならない。また和尚は金銭に執着する人ではない。酬恩庵に帰っても手ぶらのことが多い。そのため森女は寒さに震えることにもなる。
晩秋九月、肌にしのび寄る寒さをふせぐため、彼女は村の僧から紙に渋を塗った衣を借り着することもあった。その紙衣をつけた姿が、これまた一休にはひとしお愛らしい。紙のそでもまた風流と目を細める和尚。それに昼寝の森女のホオに浮かぶ小さなえくぼ・・・。すべてに魅せられた。一休禅師は、彼女の美しさを楊貴妃に例えもした。
晩年の一休に寄り添って生きた森女は歌一首を残している。
おもひねの うきねのとこに うきしづむ
なみだならでは なぐさみもなし
(真珠庵)
みな人は 欲をすてよと すすめつつ
後で拾うは 寺の上人(しょうにん)
と世の姿をなで切った。
室町時代の宗教界と世相を痛烈に批判した風狂の人、一休に本物の人間の作り方を見た森女の心眼は澄んでいた。
参考引用掲載 京に燃えた女
写真 ro-shinn