妙秀(みょうしゅう)本阿弥光悦の母 |
信長に夫の無実訴え
妙秀は”万能の美術家”といわれる光悦の母である。
江戸初頭洛北・鷹峯の地に光悦村を営み、家伝来の刀剣にかかわる仕事はもちろん、書、楽焼、茶、蒔絵さらに豪華な嵯峨本の刊行・・・等と、ダビンチ的な才能を発揮して近世初頭の京を代表する芸術家、そして京の有力な町衆の一人でもあった本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)
彼をはぐくんだのが妙秀である。
彼女は戦国の末から江戸のかかりにかけ生きた。彼女の本阿弥家は刀剣の鑑定、磨砺(とぎ)を家業にして足利将軍に仕えた古い家である。
妙秀はその七代、光心の長女であり、片岡家の二男坊を養子に迎えた。すなわち「刀脇指の目利き細工並(ならび)もなき名人」と語られている夫、光二である。
この家付き娘、妙秀は一面、男勝りの気丈な性格だった。織田信長の時代である。信長は彼に背いた伊丹城主、荒木村重を討った。村茂の敗北後、彼が所持していた名刀が市中に売られているのを、光二はたまたま手に入れた。ところが信長の側近に、その刀に目をつけた男がいた。何しろ値打ち物である。何とかタダ取りを、とたくらんだ。
信長と光二は、元から刀剣のかかわりを通じて懇意だったが、男の信長への中傷に彼の一命は危うくなり
「身に曇りなきことは天道御存知なるべし」
光二は無念の思いで家に引きこもった。
その折、賀茂山で鹿狩りの信長の馬の口に、突然取りすがった女がいた。
”夫は落ち度もなしにご勘気をこうむっております”無実を訴える妻の妙秀だった。怒りっぽい信長は「にくき女」・・・鐙(あぶみ)で彼女をけ倒した。それでも彼女の必死が信長に通じたらしく、翌日、夫は信長のもとに呼び出され天下晴れての身となった。
本阿弥家の家伝ともいうべき『本阿弥行状記』三巻の最初に記される事件である。本阿弥家のため彼女の働きがいかに大きかったかを示しているが、妙秀はただ心の強いだけの女ではなかった。
穏やかな叱責で子育て
本阿弥の家は、いまの京都市上京区小川通今出川上ル付近にあったという。そこで彼女は二男二女、合わせて四人の子を育てた。光悦とその二人の姉、そして弟である。彼女の子育てが”行状記”にある。
「妙秀が子供をそだてけるは、少しにてもよき事あれば殊外(ことのほか)悦びほめけり、人の親の瞋恚(しんい)をおこして子を折檻するを見ては、あさましき事と申されける。いとけなきものをば、心のかぢけざるやうに、心のいさむやうにと申ける。まして継子(ままこ)をにくむありと聞けば、まゝ子の母が草のかげよりにくむべし。我子よりも大切にして、きとく者の名をとれかし。継子をにくませ置夫ときけば、腰ぬけ男やうに思はるゝなり。」
一時の腹立ちにまかせ、子をさいなむ親を見ては「あさましき事」と悲しんだ妙秀は、わが子が大きな間違いをした折は、ひそかに蔵へ連れ人目につかぬように戸を閉ざし、しかるべき子を抱き寄せるようにして「何とておとなしくはならざるぞ」・・・これまでの不作法、心卑しい振る舞い、それらを一々穏やかに言い聞かせた。
子供心にはよもや知るまいと思ったちいさな”悪事”が、すべて母に見通されていたのを悟り、機嫌良い母の言葉が、怒りわめくよその親の声よりもかえって恐ろしかったと。妙秀は人間の心というものを深く見通していたのだ。怒りは怒りしか呼び返さないという。
無論、彼女の穏やかな叱責が子の心に激しく響いたのは、ふだんの彼女の無私の生き方があったからだが。
残した質素・簡素の精神
「金銀を宝と好むべからず」彼女はこう言った。兄弟の仲が悪くなり、世間に恥をさらすのも金ゆえの事が多いという妙秀は金銭を蓄えることはほとんど悪徳とみて憎みさえした。もちろん本阿弥家は夫、光二が加賀藩前田家から二百石の禄を受け、また刀剣鑑定の家業の収入もあり、暮らしに困る事はない。だが富むほどに一層むさぼるのが世の常だ。しかし妙秀はそのむさぼりを恐れた。
彼女の娘の一人は中立売小川の呉服商、雁金屋に嫁いだ。雁金屋は後に徳川家や朝廷に出入りするまで発展するが、当時は「殊の外貧しき」と言われる貧乏商人だった。
人の良い夫、光二は”うかうか仲人の口車に乗り娘は思いのほかの貧しさに、心中さぞ苦しんでいる事だろう。”悔やむのを聞いた妙秀は”貧しいのは決してつらいことではありません。逆に金持ちならば欲深で金を蓄えたのでは、と不安にもなりましょう。娘は婿の親が正直で孝行者と確かに聞いたゆえ嫁にやったもの。素直な心という以上の宝がこの世にありましょうか”「先祖の善心なるに増りたる宝のあるべきか」
そう告げて夫の憂いを吹き飛ばした。
金銭に無欲な者は、人間の交わりに厳しい。幼い子をあれだけ優しく導いた彼女だが成人したわが子の”落ち度”は許さなかった。
彼女の二男、宗智は洛中でも評判の正直者だった。その彼が妻を離別した男と時たま会っている・・・と聞くや、妙秀は宗智を勘当、親子の縁を切った。彼女には老いた妻を離縁するなど「世に隠れなき畜生」であり彼とつきあう者も同罪というのだった。身を賭して信長の馬に取りすがった彼女は、人の振る舞いに厳しかった。
妙秀は元和四年(1618)世を去った。九十歳という。大勢の孫・ひ孫から贈られた衣服や銭を、常々、身の回りに働くもの、通りすがりの菜売り、物乞いにまで分け与えた彼女の遺品は、単衣(ひとえ)の着物一枚、浴衣、紙子の夜具などわずか数点。それがむさぼらない彼女の生涯の証だった。
妙秀が育てた長男、光悦は豊臣家が滅びた元和元年凱旋の家康から鷹峯に東西ニ百間(約360m)の土地を与えられ一族五十五軒の屋敷を構え移り住んだ。
だがその本阿弥一族の中心役、光悦は寛永十四年(1637)八十歳で世を終るまで「小者一人、飯炊き一人」の簡素な暮らしを貫いたとある。精力的で多彩な活動を繰り広げた光悦はそのむさぼらない心でまさに妙秀の子であった。妙秀の無私の豊かな心の生んだ傑作が彼である。
参考引用掲載 京に燃えた女
写真 ro-shin