和泉式部 いずみしきぶ |
和泉式部日記の作者
大胆に愛うたう情熱歌人
昔も今も人の口はやかましい。ある日のこと、男の友達が多いとかねてうわさの高かった女性が子供を産んだ。と世間は早速やれ”未婚の母”とか父親は誰か・・・とうるさくせんさく。やがては面とむかって「どなたを親に決めましたの」とぶしつけな問い。
プライバシーの侵害に憤然とした彼女は「そんなに知りたければあなたがお死にになってから閻魔様にでもお聞きなさい」
この世にはいかがさだめむおのづから
昔をとはむ人にとへかし
と歌をよんで手厳しく反撃した。
この現代女性の先駆けのような心意気を示した女性_それが今からざっと千年前、平安時代切っての情熱歌人とうたわれる和泉式部である。なんせ、彼女には大胆に愛をうたった歌が多い。
いとおしんでくれる人もなく、丈なす黒髪も乱れたままに打ち捨て横たわっている日には、その黒髪を優しく撫でながら愛してくれた初恋の人がしきりに恋しいという。
黒髪の乱れもしらずうち伏せば
まず掻きやりし人ぞ恋しき
もそんな彼女の恋の歌を代表する一つ。
柔肌の熱い血潮をうたった明治の女流歌人、与謝野晶子の処女歌集『みだれ髪』のタイトルは、この歌から採られたものだろうと言われるのだが、それはともかく「黒髪の乱れも知らず・・・」については弱々しくうち伏したさまではなく、激しい愛の営みのあと、乱れに乱れた我が髪に白い裸身をくるませ倒れ伏したさまを語る_とのレッキとした解釈もある。
燃えた恋はただ二人
彼女を巡るうわさの男は多かった。夫以外に、藤原道綱、兼房、隆家、源俊賢(みなもとのとしたか)雅通(まさみち)・・・それに出家の身で夜な夜な和泉式部のもとに通い、共寝の床で読経したという快?僧伝が伝わる道命阿闍梨(あじゃり)など十指に近い。すこぶる多彩な”相関図”だが、しかし彼女が真剣に燃え上がった恋は弾正の宮為尊親王(だんじょうのみやためたかしんのう)と弟君の師の宮敦道親王(そらのみやあつみちしんのう)の二人に対してだけであったといわれる。
この恋、ことに師の宮との恋の成り行き、その喜びと悩みを約百五十首の歌を交え綴ったのが『和泉式部日記』である。
長保五年(1003)は、藤原道長が臣下の最高位とされる左大臣の位に上ってから七年後、長女彰子(しょうし)を天皇の后中宮にして、いよいよ”道長時代”の始まったころである。
四月も十日過ぎ、青葉が茂りあって息苦しいほどの昼下がり和泉式部_この時二十五歳前後_は深い物思いに打ち沈んでいた。
彼女が子までなした夫、和泉守橘道貞や父、大江雅致(まさむね)も捨てて一途の恋に走った、弾正の宮(冷泉天皇第三皇子)があっけなくこの世を去って十ヶ月。悲しみは深まるばかりで「夢よりもはかなき世のなか」と嘆き過ごす日々だった。
そんな昼下がり。故・弾正の宮に召し使われていた少年が、香り高い白色の花をつけたタチバナを届けてきた。聞けば亡き宮の実弟、師の宮が寄越したものだった。宮は二十三歳。この年下の貴公子からの贈り物に、彼女は「花の香に昔の人をしのぶより、あなたのお姿からこそ、ありし日の弾正の宮をしのびたいものです」と
かほる香によそふるよりはほととぎす
きかばや同じ声やしたると
一首を詠んで返礼にした。
彼女からの歌を見て、宮の心はいっそう動いた。さっそく「弾正の宮とは同じ兄弟。あなたへの思いは私にしても同じこと・・・」とばかり、
おなじ枝になきつつおりしほととぎす
声はかはらぬものとしらずや
と言い寄るのだった。これが新しい二人の仲の始まりになった。その後、間もないある月の夜、宮は不意に彼女の家を訪れ拒む女に「かり寝のはかない夢もみず、このまま夜を過ごしては・・・」と半ば強引に迫り、契りを交わす・・・。
日記には、以後、その年の暮れ、彼女がひそかに宮の邸に引きとられ、明けて正月、これに立腹した師の宮の正妻(大納言藤原済時の二女)が里に帰る下りまで、宮と彼女の恋の第一楽章ともいうべき十ヶ月の出来事がやわらかな筆で語られてゆく。
恋人との逢瀬描く
この間、日記は間遠になった宮の訪れに思い患う女の姿や、女の浮気を疑う宮とのやりとり、伏見の里の宮のいとこの邸内の車宿で激しく交わした二人の夜_など、今も変わらぬ恋人たちの心理と事件を次々に描き出す。
だが、日記にあらわれた彼女の姿は「この世には・・・」の歌に見られるような世間のうわさに敢然と反抗する”強い女”のそれではない。元来、和泉式部の父の役職は越前守。戦前の知事官選時代の福井県知事といったところ。彼女は言うところの受領(ずりょう)階級の出であり、皇族の宮とは身分違いの恋である。しかもこの恋のとき宮は二十三歳、歳下の男だった。
彼女は時に年上らしい積極さも見せるが、多くは男の心を推し計りかね、思い惑う弱い存在である。
この歌に表れた強さと日記に見られる弱さ_それは一見矛盾したごとくに思える。だが生きることの不安、人生のすぐ背後にひそむ暗い無を、いち早く、少女のころから感じとった鋭敏な心の表裏を示すものと考えれば理解出来るのではなかろうか_。
宮との恋はこれから五年、寛弘四年(1007) 師の宮(そらのみや)の死で終った。また和泉式部が前夫、道貞との間に設けた娘、小式部内侍(こしきぶのないし)も万寿二年(1025)母に先立つ。
死に遅れた彼女は二人のため挽歌、哀傷歌を数多く残した。
なき人の来る夜ときけど君もなし
わがすむ里や魂(たま)なきの里
(師の宮挽歌)
諸共(もろとも)に苔のしたには朽ちずして
うづもれぬ名を見るぞ悲しき
(小式部哀傷歌)
生前”浮かれ女(め)”ともはやされた情熱の詩人は、愛の遍歴に常に伴う生の悲しみをも深く見た慟哭の人でもあった。
参考引用掲載 京に燃えた女 著者 堀野 廣
写真 ro-shin