藤原長子(ふじわらのちょうし) |
心通いあった二人
「降れ触れこ雪、垣や木のまたに・・・」
雪があたりをまっ白に染めた朝のこと。あどけない歌声が聞こえてきた。
あれは誰の子・・・ふとひととき、長子は今いる場所を忘れた。
雪はまだどんどん降り積もる。”そう、ここは御所だ。あの声は六つになられたばかりの幼い帝のお声だ”彼女は夢心地からさめて思った。これからは、この幼い君にお仕えするのだ、と思うにつれてもはかなく頼りなげな気持ちはどうしようもなかった。思い出されるのは昨年晩夏のころに崩ぜられた先帝、堀河天皇の在りし日のことどもばかりである。あれも雪の朝のことだった。長子は、またある時しのぶのだ。
その日の雪はことに見事だった。内裏の清涼殿の前庭に植えられた竹は、今にも折れそうなほどにたわわみ、その近くのかがり火をたく”火たき屋”も雪に埋もれてしまいそう。降りしきる雪を見る帝のお姿は、この日一段とお美しかった。それに引き換え、前夜、お側で過ごした私は、髪も十分整えていない寝乱れた姿。白雪に映える帝の容姿に比べあまりのわが身の様に思わず
「もっと美人なれば、と今日はことに悔やまれます」
と申し上げれば、かたわらに立たれる天皇は
「いや、本当にそうだよ」とおかしげに言われる。
ぴったりと心の通いあったあの時の堀河帝のお口もと、二年後の今、長子にはそれが目前の出来事のようにありありと思い浮かべられるのだった。
あの時、私は黄、山吹き、蘇芳(すおう)の衣を重ね着て、その上に淡い紫の唐衣(からぎぬ)を着ていたが、帝は純白の雪と衣服の色合いとの鮮やかな対照にじっと目を止めておられた・・・。八年の間、身近にお仕えした堀河帝の追憶は長子には限りなかった。
愛する帝と死の別れ
堀河天皇が発病されたのは、嘉承二年(1107)六月二十日のことである。今の暦だと七月の半ば過ぎ。京の町がいちばん暑いころだ。十六歳の頃から病がちだった天皇だが、今度の病気はただ事ではなかった。高熱を発し、やがて重体に陥った帝の病床に奉仕する女官は乳母二人と長子の三人にすぎなかった。
幼いころころ母と死別した天皇は、寂しがりやで笛を好み人懐っこいお人柄だったが、いま死の床では苦痛に喘ぐ一人の人間だった。二十九歳の帝は、幼児の頃からはぐくまれてきた乳母の一人、大弐の三位(だいにのさんみ)に、
「お前は、心のたゆんだやつだ。わたしがきょうあすにも死のうとしているのを知らぬか」
と、看護の様を責め、「どうしてなまけなどいましょう」と答える三位に
「何をいう。今なまけていたぞ」
苦しさのあまり、子供のようにだだをこねられるのだった。
しかし、天皇の側に添い寝した長子が一睡もすることなく、弱り果てた帝のお顔を見守っていると、ふと目覚められた天皇は「どうして眠らないのか」・・・と苦痛の中で彼女のことを案ぜられるのだ。
その二日後、十九日の昼、最後の瞬間が来た。
わずかに水でノドをうるおされた天皇は「汗をぬぐえ」と、かぼそい声で長子に命ぜられた。陸奥紙(みちのくがみ)で、彼女が鬢(びん)のあたりの汗をぬぐって差し上げると、また帝は「苦しく耐えがたい。抱き起こせ」_と。
その言葉に従い、長子が抱き起こせば、病み果てた天皇の体はあまりにも軽々としていた。
起こした天皇の手が、彼女の肌に触れると、その手はすでにひんやりと冷たい。そのうちにひたすら念仏を唱えていた帝の口元も動かなくなり、目の様子も変わっていった。死である。
格子を下し日の光を遮った暗い部屋で、乳母や帝の乳兄弟たちが泣き叫ぶ。乳母は遺体にとりすがり「なぜ、私を捨てて行かれた」とかきくどく。
その騒ぎの中で、長子はただ帝の汗をぬぐって差し上げたあの陸奥紙を額に押し当て、じっと座っていた。あまりの悲しみが、泣くことさえ彼女から奪ってしまったかのようだった_。
今は安らかな帝のお顔が、彼女にはただ寝入った人のように清らかに思えるのだった。
行間に女の悲しみにじむ
堀河天皇が亡くなられた嘉承二年は、平安時代ももう残り百年にも満たない王朝末期のころである。白河法皇の院政下にあり、天皇はしだいに政治の場から離れて行った。
長子、すなわち藤原長子は、王朝も終わりに近いころに、悲しみの記録と亡き帝への追憶を『讃岐典侍日記(さぬきのすけのにっき)』に書き残した。そこには帝の死というより、一人の人間の死への厳粛な歩みがまざまざと記されている。しかもその行動からは、死によって愛する人を奪われた女の悲痛さが噴きあがるように伝わってくる。
彼女はこの永遠の別れの悲しみに耐えるため筆をとり、日記を書くことで生きる力を得たという。
長子は、堀河帝崩御の後、いったん里に帰ったが、白河法皇からの再三の催促にやむなく翌嘉承三年正月から幼い鳥羽天皇のもとに再び仕えるようになった。
「降れ、降れ、こ雪」
と歌われていたのはこの正月の日の童子ともいうべき鳥羽帝だった。
以後、十年、彼女は宮廷に仕えるが、四十歳のころ精神に異常を来しさまざまの”予言”をした。月日とともにますます募る今は亡い堀河帝への思慕が彼女を狂わせた原因かもしれない。彼女はその狂った心で幽暗を隔てた懐かしい帝の声を確かに聞いたことだろう。
兄道経に引きとられたという彼女の最期は明らかではない。
追記
長子の父は、歌人でもあった藤原顕綱(あきつな)彼が讃岐守を務めたことから、長子も讃岐の典侍(てんじ)と呼ばれた。
典侍は天皇の秘書のような存在。内侍司(ないしのつかさ)の次官だが、やがて天皇の寝所にもはべるようになった。
彼女は堀河天皇とほぼ同い年という。姉には同帝の乳母の一人、兼子がいた。
清涼殿・朝餉(あさがれい)
西ひさしの間は、東ひさしの荘重さに比べ、奥向きのくだけた日常生活の場。萩壷に面して小さな部屋が5室並ぶ。朝餉の間は朝食と身を整える所。一双の山水屏風で囲み、脇に櫛などを入れた二階厨子などが置かれている。朝、帝は御湯殿の間(浴室ではない)で体をみそぎ手水の間で手を洗い口をそそぐ。そして朝餉の間で朝食をとる。当時の食事は一日2食で朝食は午前10時。食事は隣の台盤所から運ばれ、魚は干物で食事は冷めていたという。
参考引用掲載 京に燃えたおんな 著者 堀野 廣
写真 ro-shin