東福門院(徳川和子)後水尾(ごみずのお)天皇の中宮 |
京女に変身した江戸の姫
江戸の女御入洛
「五月二十八日、晴 今日、江戸より女御(にょうご)御上洛。乗物百丁ばかり。男女のお共は八、九千人ばかりなり。」
この日、後水尾天皇の妃に定められた徳川和子(かずこ)は土井利勝(しかつ)、酒井忠世らの幕府重臣、阿茶の局(あちゃのつぼね)を筆頭にした侍女たちに付き添われ京に入った。彼女が江戸を発ったのは五月八日。
二十日間の”花嫁の旅”の後だった。初めの一節は”江戸女御”と呼ばれた彼女の入洛を記した公家の日記の一部である。
陰暦五月の末になると、日差しはもうすっかり盛夏である。輿に差し掛けられた大きなカサが、油照りの京の太陽から彼女を守っていた。それはまた行列を迎える京の人々の好奇心に満ちた刺すような視線から彼女を守ろうとしているかのようだった。
沿道には、この前代未聞の盛儀を見ようと、洛中はもとより近国からも集まった人々が群がっていた。その間を縫うように長い列は徳川氏の居館、二条城に向かって進んだ。
女御として入内(じゅだい)する和子はまだ十四歳のふくよかな姫である。彼女は徳川二代将軍、秀忠の八女であった。
この”縁組”は元々、彼女の祖父、家康のチエから出た。孫娘を天皇の妃にし、その皇子を帝位に就かせ、外戚として徳川家の地位をますます強固なものに_との深謀遠慮だ。すでに家康は大阪の役の翌年、元和二年(1616)世を去ったが、その遺志は生かされ元和六年の”姫上洛”となった。
しかし朝廷に、そして京にとって彼女は必ずしも歓迎される花嫁ではなかった。幕府は五年前「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」十七条を定め、朝廷や公家への統制を強化した。それはわずかに残った朝廷の権限を奪い、完全な江戸の支配下に置こうとしたものだった。その仕上げとして、曲折はあったが江戸から送り出されて来たのが和子である。それに京に同化することで身を飾ろうとした秀吉に比べ、徳川氏は都に背を向け本拠を江戸に構えた。その江戸の姫の上洛を見物する京童の視線が温かかったはずがない。
豪華な式に宮中冷ややか
長い旅の疲れが出たか、彼女の病気でいったん延期された入内の儀式が、ようやく六月十八日に行なわれた。
雨模様のその日、やや晴れ間の見えた午前八時ごろから、持参の諸道具が御所へ運び込まれた。びょうぶ箱三十、御琴箱三など・・・長櫃(ながびつ)の数は全体で五百八十にも及んだという。なにしろ入内の費用が七十万石。徳川の権威を世に示すため金に糸目はつけない入内だった。
”花嫁”の行列は正午頃いよいよ二条城を出た。先導は笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、笛、太鼓などを奏でる四十五人の楽人。また上臈(じょうろう)、中臈の乗った牛車。騎馬の公家、武将らおよそ五千人の列が続いた。
姫は二頭の牛に引かれた華やかな車のうちで揺られていた。行列の中には中御門大納言資胤(すけたね)のように慣れぬ馬を扱いかね落馬する公家もあり、沿道で見物する人たちもあれこれ口やかましかった。
御所にいた女御和子の一行は、今度の入内のため新築された女御御殿に入った。やがて宮中での入内の式が深夜から行なわれた。帝との間に三度杯が交わされる簡素な儀式だった。帝は十一歳年長の二十五歳であった。
その半月ほど後、宮中恒例の七夕の夜、彼女が帝への返歌に詠んだ歌に
東(あずま)にもけふや吹くらん星合ひの
空も涼しき秋のはつ風
一首がある。身辺には江戸から従って来た侍女たちが多数とはいえ、宮中の冷ややかな視線を感じるとき、年端もゆかぬ江戸女御には千代田の城が恋しかったろう。
江戸と京の間で苦しむ前半生
京と江戸との激しい暗黙の対立とは別に、彼女には三年後の元和九年に誕生した興子(おきこ)内親王を最初に、次々に皇女皇子が生まれた。
何しろ、江戸の彼女の母、崇源院(すうげんいん お江与)は六歳年下の夫、秀忠に生涯浮気を許さず彼女一人を守らせた_という女性である。後水尾(ごみずのお)帝の後宮にもその江戸の目が光っていた。それに和子はお市の方の孫に当たる美女だ。精力的な帝は彼女を大いに慈しんだ。
それでも江戸に対する天皇の気持ちが収まったのではない。干渉的な幕府に対する憤りは積もり積もり、それが爆発したきっかけが”紫衣事件”である。
天皇の命によって許した僧の紫衣着用に、幕府が無効を宣言したのだ。我慢しかねた天皇はついに寛永六年(1629)11月、突如、帝位を興子内親王(明正女帝 めいしょう)に譲った。
譲位の宣言である。すでに中宮の称を得ていた和子も、その日はじめて知った帝の決意だった。二十三歳の彼女は驚いて、事を関東に知らせるよりなかった。
江戸と京のはざまにあって苦しんだ彼女の前半生だったが、その晩年はかえって幸せだったという。
帝の譲位後、中宮の彼女は東福門院を称した。後水尾法皇は八十五歳、東福門院もまた七十三歳の長寿を全うした。
晩年、二人はともに各地を遊覧された。かつて帝とのしこりになった京と江戸との対立は、もうすっかり消えていた。というのも入内以来半世紀、東福門院はすっかり京の女に変身していた。
二条城
慶長七年(1602) 徳川家康が築城、三代家光が伏見城の遺構を移すなどして1606年に一応完成。幕府の京における政治・軍事の拠点。慶応3年(1867)十五代将軍慶喜が大政奉還を二の丸御殿で上表。城は徳川幕府の初めから終わりまで見届けることになる。天守は雷火、本丸は天明の大火で焼け、現存する二の丸御殿(国宝)は雁行形の大書院造り。部屋の襖絵は狩野深幽ら狩野派一門の名作。彫刻、飾り金具など桃山美術の粋を伝える。
参考引用掲載 京に燃えたおんな 著 堀野廣
写真 ro-shin