祐天寺 (東京中目黒) |
かさねの菩提寺
累(るい)物語について
江戸三大幽霊の一人とされる累。その累が登場する歌舞伎や講談、仮名草子などは「累(かさね)もの」と称され江戸時代にはとても人気を博していました。そしてこの累の物語りは実際に起こった事件が元になっています。
はじめてこの事件が記された説話集『古今犬著聞集(ここんいぬちょもんじゅう)』より事件の概要を紹介。
時は正保四年(1647)ある村に累という女性がいました。与右衛門(よえもん)という入り婿を迎えましたが、与右衛門は累の容姿の醜さが嫌で、近くの川に突き落として殺してしまいました。その後、与右衛門は後妻を迎えますが、そのたびにすぐに亡くなってしまい、六人目のあいだにようやく菊という娘を授かりました。やがて菊が十三歳になった寛文十一年(1671)にその母が亡くなり菊は婿をとりましたが、翌年の正月四日から菊は病にかかってしまいます。
口から泡を吹いて目を怒らせて与右衛門に向かい、「我は26年前に川で殺された累なり」と口走るようになりました。驚いた与右衛門と婿は逃げ出し、それを聞きつけた村人たちが近くの寺の僧侶に祈祷をしてもらいましたが効果がありません。村人たちはさまざまに話し合い、三月になって飯沼弘経寺(いいぬまぐぎょうじ)の学僧数人を招きました。その中の一人が祐天でした。祐天が皆に念仏を称えさせると菊が「胸の上にいた霊が降りた」といい、さらに家の中の四方の柱に「南無阿弥陀佛」と書いた名号を貼付け、菊に何度も十念(南無阿弥陀佛と10回称えること)をさせたところ、ようやく霊は去って行きました。
正気に戻った菊は村人たちに「地獄極楽を見た」と語り、それを聞いた祐天は、累と菊にそれぞれ「理屋松貞」「不生妙槃」という戒名を授けました。ところがしばらくたって、再び菊が以前のように苦しみ出します。また祐天が呼ばれて菊を問いただすと、それは累の兄にあたる「助」という子供でした。累の母は助を連れて累の父となる男性に嫁ぎましたが、助も容姿が醜かったことから義理の父に疎まれ思い詰めた母に殺されていたのです。祐天が念仏して助に「単到真入」と戒名と戒名を授けたところ菊の苦痛はたちまちやみ、助が菊の口を借りて「我らの決定徃定(けつじょうおうじょう)間違いなし」と告げました。村人たちは感動し、以来、村中に念仏の声が響くようになったそうです。
かさね(累得脱曼荼羅の世界)寺宝一挙公開
参孝引用掲載 祐天寺パンフレット
写真 ro-shin