「泉南仏国」(せんなんぶっこく)と呼ばれた堺一大寺町端緒を開いたのが南宗寺の前身「南宗庵」です。弘治三年(1557)に南宗庵の住職、大林宗套(だいりんそうとう)に帰依した三好長慶は、父・元長の菩提を弔うために小さな庵を大改造し南宗寺を創建しました。
この時、千利休の師であった武野紹鴎(たけのじょうおう)も財を投入して協力を惜しまなかったといわれています。南宗寺は茶の湯の発展に大きく寄与しました。
禅宗様式と和様式が融合する重要文化財の甘露門(山門)正保(しょうほう)四年(1467)建立
大坂夏の陣で焼けた瓦を使っている
本坊方丈にある枯山水の庭園
徳川家康最期の地 大坂夏の陣の1年後に徳川家康は駿府城(すんぷじょう)で波瀾に満ちた人生を終えたと書かれています。享年75才、死因は鯛の天ぷらによる食中毒とも、胃がんとも言われていますが『南宗寺史』には驚くべき記述があります。
大坂夏の陣で真田幸村の猛追に総崩れになった茶臼山の本陣を逃れた家康は、駕籠に乗って逃げるさなかに後藤又兵衛の槍に突かれた。堺までは落ち延びたが南宗寺で駕籠からおろすと、すでに事切れていて遺骸は南宗寺の開山堂に隠し、後に駿河の久能山、そして日光山に移したと言われています。
卵形の無銘の墓が家康の遺骸を仮埋葬したときの石碑だと言われています。有名な岸和田だんじりの彫り物の中に、家康が後藤又兵衛の槍に突かれ落命するシーンが描いたものが多くあります。
釈迦如来を安置した仏殿の天井には狩野信政筆の「八方睨みの龍」が描かれています。
参孝引用掲載 堺を歩けば
写真 ro-shin