西国薬師巡礼<第3番 般若寺> |
奈良市の北に、北山という小高い丘があります。
飛鳥時代629年高句麗から渡来した慧灌法師が(えかん)が般若台をはじめたのがこの寺の草創です。
その後聖武天皇が大般若経を奉納して民心の安定と平城京の繁栄を願い定額寺としました。
平安時代には観賢僧正がこの寺を再興するとともに学僧千人を集めて学問の道場としました。
それ以後般若寺は学問の寺として名高く天下に響き渡りましたがこの寺も源平の争乱に巻き込まれ1180年、平重衡の南都攻めによって焼かれてしまいました。
鎌倉時代に入り、民衆の信仰が十三重石塔の造営に結集され、宋の石工、伊行末(いぎょうまつ)の手で建長五年(1253)頃完成、続いて良恵上人によって、本堂や講堂が造営されました。
また病人の救済施設、北山十八間戸も経営、心身の安らぎと病気平癒、衆生済度のお寺として繁栄。また花の寺としても有名です。
山吹、あじさい、コスモスなど四季折々の花々が楽しめます。
奈良市般若寺町221 ☎0742-22-6287
●本尊 文殊菩薩、十三重大石塔、東面薬師如来●開山 高句麗僧慧灌
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法話
お薬師さまの慈悲行 般若寺住職 工藤良任
般若寺の近くに北山十八間戸という一棟の長屋があります。これは鎌倉時代に西大寺の僧であった良観上人忍性が、ハンセン氏病の患者を救うために建てられた病院施設です。
現在の建物は江戸時代の再建ですが、日本最古の病棟で国の史跡に指定され大切に保存されています。
伝説では、奈良坂にいた一人の患者は手足が引きつって歩行不自由であった。乞食にも出られず食物も満足に得られず困っていた。忍性さんはこれを憐れんで毎朝その患者を背負って市につれていってやり、夕方にはまた家に連れ帰り、手づから身体を洗うなど手厚く看病してあげた。するとこの患者は師に感謝して臨終の際、「再びこの世に生まれ、師の恩徳に酬いたい」と言い残した。果たして後日、弟子の中に瘡のある人でよく師につかえ、身のお世話をする者があったと言い伝えています。
般若寺の復興にも尽力された忍性さんは、その後鎌倉へ行き極楽寺を開山されました。
そこでは橋を架け道をつくり、港をひらくなど土木事業を興して人々の生活を利益し、病人や貧しい人々の救済をはかり、社会奉仕活動に一生を捧げられました。時の人は忍性さんを医王如来(薬師如来の別名)生身の如来と称しあがめたそうです。
仏教では生きとし生けるもの、一切衆生への愛を慈悲といいます。
慈悲こそ仏さま、お薬師さまの根本精神です。お薬師さまと同じ慈悲行に生きられた忍性さんはその徳をたたえ忍性菩薩と申し上げます。
<参考引用掲載> 西国四十九薬師巡礼 朱鷺書房