西国薬師巡礼<第4番 興福寺 東金堂> |
さるさわの いけのほとけの てらにはに るりのひかりは あまねかりけり
もとは藤原鎌足が像造した釈迦三尊を妻の鏡女王(かがみのおおかみ)が京都山科の私邸に山階寺(やましなでら)として建てたのが始まりです。
天智天皇の八年(669)のことでその後飛鳥厩坂(うまやさか)の地に寺を移し、厩坂寺と呼んでいたのを奈良に移し興福寺と名づけました。
皇室や藤原氏の手で堂塔伽藍が整備され奈良時代には四大寺の一つとして栄え庶民とのつながりもしだいにでき平安時代には春日大社の実権を握り鎌倉・室町時代には幕府は諸国に守護職をおいて統治しましたが大和国にはそれをおかず興福寺にその職務を行なわせました。
奈良市登大路48 ☎0742-22-7755
●本尊 薬師如来●開山 藤原不比等
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法話
興福寺の薬師如来 興福寺住職 多川俊英
猿沢池の南畔から見上げる五重塔の雄姿は、古都・奈良の代表的な景観であるがその五重塔に隣接して薬師如来を本尊とする東金堂がある。
現在の東金堂および薬師如来座像は室町時代の応永22年(1415)の再興であるが、その草創は、むろん、奈良時代にまでさかのぼるものである。すなわち、神亀3年(726)聖武天皇が叔母の元正太上天皇の除病延命を祈願されて丈六の薬師三尊を造立発願された事に始まる。
この東金堂では、本尊の薬師如来を中心としてその左右に文殊菩薩と維摩居士が安置されている事に注目したい。
豊満で若々しい文殊に対して維摩居士は痩身老躰に彫出されており、衆生病む故にわれ病むという居士を文殊が見舞う「維摩経」間疾品の状景をよく表している。
興福寺の年中行事で、かってもっとも盛儀をほこったのは維摩会であるが、その縁起の節として、藤原鎌足が斉明天皇2年(658)病をえた折から、百済の法明と言う尼僧を招いて維摩像を造顕し、維摩経を読誦せしめた。そしてその功徳により除病の験があった事にちなみ、同四年より年中行事として維摩経の講讃をおこなった事によるといわれる。その維摩会は興福寺講堂を会場としたが、この東金堂でも平安時代・弘仁年間に維摩・文殊両像が置かれるようになった。これは、興福寺の薬師信仰が維摩経がらみに展開したものであるといえよう。
<参考引用掲載> 西国四十九薬師巡礼 朱鷺書房