西国薬師巡礼<第14番 青龍山 野中寺やちゅうじ> |
くもりなき るりの光の のなかでら こころもはれて
帰るうれしさ
聖徳太子の寺として知られていて、「中の太子」とよばれています。
叡福寺が「上ノ太子」、大聖勝軍寺が「下の太子」、河内の三太子と呼ばれています。
(野中寺塔跡)
この土壇は心礎(塔の中心柱を支える礎石)が存在する事から塔跡と考えられ、昭和60年に発掘調査をしたところ凝灰岩でつくられた「壇上積み基礎」と呼ばれる基礎が認められました。この基礎は東西13.6m 南北12.9 高さ約1.5mの規模を持ち東側に階段が存在した事がこの塔が金堂の方を向いていたことになります。基礎の中央に心礎を置きその四方に計12個の礎石を配しており他の寺院に見られる四天柱礎と呼ばれる礎石は存在しませんでした。
心礎は径71cmの円孔があり、その周囲に半円形の支柱孔を三つ持ち上面に亀の彫刻が認められます。円孔の内側には方形の舎利孔があり塔跡の調査で「庚戌年正月」の記銘瓦が出土しているので650年には塔が建立されている事がわかります。
(ヒチンジョ池西古墳石棺)
これは人を葬るための部屋で、二上山で採れる凝灰岩を精巧に加工して10個の石材を組み合わせてつくられています。内法は長さ約2.4m.幅約1.1m. 高さ約1m.です。
この中から銅製の釘や漆の膜や木の破片が見つかっているので漆染め石棺が安置されていたものと考えられます。
河内や大和の飛鳥に分布していて、7世紀の終わりから8世紀の初めの頃と思われます。この古墳はここから南西に約1キロ離れた場所で発見され、野中寺の境内に移築されました。
(お染 久松の墓)
油屋の豪商天王寺屋の娘お染と、丁稚久松との悲恋の有名な話の二人の墓は1722年十七回忌にお染の兄が建てたものです。
また境内庭園の「縁結びの山茶花」はお染が幼いときにこの木の下で遊んでいたものをここへ移植したものと言われています。
大阪府羽曳野市野々上5-9-24 ☎0729-53-2248
●本尊 薬師如来●開山 聖徳太子
---------------------------------------------------------------------
法話
私の仏縁 野中寺住職 野口明真
私が僧侶としてのご縁を得たのは、母親の影響によるものであります。母方の里、藤田家には慧光上人と言う立派な坊さまが出ておられます。河内長野市の延命寺に浄厳和上さまという江戸時代きっての名僧で、当時将軍徳川綱吉公の帰依を受け、江戸湯島に霊運寺を建立され「今大師」弘法大師の再来と言われたお方がおられましたが、慧光上人はこの浄厳和上の一の弟子で霊雲寺の二台目をつとめ、東大寺戒壇院の長老職にもなられた方でありました。
母は自分の先祖にこのような立派なお坊さまがおられた事を誇りにもち私たち子供にもよく慧光さまの話を聞かせました。
仏教には厚い信仰を持ち、僧侶にはあこがれの念を持っておったようであります。子供が六人もあり、私が三番目ということもあって、僧侶として間引かれ、野中寺に入寺することになったのであります。
母は師範学校出の先生で子供のしつけや教育は厳しく、私が入寺する時、九歳の年でしたが、私に「お上人さまお帰りなさいませ」と両親が手をついてお迎えできる立派なお坊さまになるまで、我が家の敷居をまたぐでないぞと言い聞かせ、さらに「和尚さまには絶対服従しなければいかん。たとえ黒い鳥を白い鳥が飛んでいると言われても口答えをしてはならん。そして真面目な人間として大きくなりなさい。とさとしたのでした。母は邪のことや曲がったことが大変嫌いな人で、何事も一生懸命やり通さないと承知しない方でありました。
私はこれらの母の言いつけを僧侶の励みにしてまいりました。
どうも上人さまにはなれそうもありませんが、ご厄介になったお寺への報恩感謝と、寺門の興隆に努力をいたしておるようなことでございます。
<参考引用掲載> 西国四十九薬師巡礼 朱鷺書房