西国薬師巡礼<第26番 医王山 長安寺> |
千歳経て 松の翠に いや映えて 瑠璃の佛光 永久にかえさん
聖徳太子の義母麻呂子親王が丹波の鬼族を退治するのに、自ら戦勝を祈願して薬師如来像七躰を彫刻して七つの寺院に奉納されたといいます。
七仏薬師の一躰がこのお寺に祀られたということです。
平安時代の初期に、薬師如来を本尊とする真言宗の鎮護国家の道場、金剛山善光寺が創建されました。
後に長安寺と名を改め三重塔をはじめ講堂が整い二十五カ寺を有する大寺として繁栄しましたが室町時代初期の応永年間(1394~1428)に焼失しました。幸いに薬師如来は難を免れ、姫髪山腹の小さなお堂に安置されていました。
文明6年(1474)に夢窓国師の法嗣悦堂禅師が諸国を巡錫の折り、この寺に七堂伽藍を再建し従前真言宗であったのを禅宗に改め、瑞鳳山としました。その時に小堂に安置の薬師如来を、別に一堂を建ててお祀りしたのです。時代は降り戦乱が続き永正八年(1511)年に寺は再び焼失しますが薬師如来像は無事で、眼光恵透禅師が入山した天文十三年(1544)に山号を医王山と改め現在に至っています。
(開山堂・・・眼光恵透禅師の木像を安置)
●本尊 釈迦如来 薬師堂本尊=薬師如来●開山 悦堂禅師
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法話
本来無一物 長安寺住職 正木 義完
生きているものが活かし合う教えを宗教と言います。とはいえ生きているもの活かし合うことは大変難しいことであります。活かし合えたら、うらみ・ねたみ・戦争など起きることはありません。
まず生きている自分が本来無一物の自己だと自覚することです。あれもこれも持っている、と思うからその欲望のために無一物を忘れ、迷いの中に落ち、相手に傷をつけるのです。無一物と自覚したならば、そこからが宗教の第一歩です。宗教は向こう側から何かを与えたり、足りない欲望を満たすものではありません。
本来無一物だよと教えてくれるものが宗教なのです。
こんな時、薬師如来さまを拝んで行くことです。自分自身がわからなくなった時、合掌するのです。無一物になって如来さまの前に無心の身体を示すことです。そうすると如来さまと自分とが一体となり、瑠璃浄界に達し、病いが病いでなく、悩みが悩みでなく、安楽浄土となるのです。
信仰とは信じて仰ぐこと。無一物になって自分自身を仰ぐこと。
そうすれば自他の隙間がなく自他平等、他人を拝むことができ、他人は自分を拝んでくれる世界に到達するのであります。その世界が信仰であり、瑠璃界であり、生きているものが活かし合う世界であり、宗教の宗教たる世界であります。今日、現在の今、自分がいかに生き、働き、奉仕するかがはっきりしてくるでしょう。生きて活かすものが活かして生きる宗教観に達してこそ、薬師如来さまの十二の大願を感得できるのではないでしょうか。
<参考引用掲載> 西国四十九薬師巡礼 朱鷺書房