西国薬師巡礼<第28番 亀居山大乗寺> |
縁有るも 無きももらさぬ 大乗の 御法ぞ誰か 森村の里
山陰、城崎温泉と湯村温泉との中間に位置する大乗寺、通称応拳寺(おうきょでら)と呼ばれています。徹頭徹尾円山応挙を中心とした丸山派の絵(山水画)の寺で、丸山派古画展覧場ともいわれています。
客殿の玄関を入れると大小十三の部屋に、応挙をはじめ、応瑞、守礼、呉春など十二名の襖絵、掛軸、衝立、屏風など非公開のものを含めて百数十点、すべて重要文化財に指定されています。
観光バスが数台止められていて大勢の観光客が、丸山派障壁画を、お寺の方の説明を聞きながらみてまわられていました。仏さまの影が薄いなとちょっと残念に思いました。
奥の瑠璃光殿には本尊の薬師如来が祀られています。この薬師如来像は十一世紀の仏師智円の作で県指定の重文です。
兵庫県城崎郡香住町森860 ☎0796-36-0602
●本尊 薬師如来●開山 行基菩薩
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法話
写心 大乗寺住職 長谷部真道
「意識が意識自らを意識する」のが人間であるが、人それぞれには明らかに二つの面がある。一つは自分はこのような人間であると考えられた自分と、もう一つは、自分をこのような人間であると考える自分とである。そしてこの「考える自分」は、自分というものをいろいろに考えるけれども、それ自身は決して「考えられるもの」とはならない。それは意識する力であって意識される方ではなく、捕捉する方であって捕捉される方ではない。だから「考える自分」は永遠に不可得である。
我々は大抵「考えられた自分」を自分の全体としてしまい「考える自分」のあることを忘れてしまっている。人の世に生きる限り、さまざまな不安、恐怖、苦悩は尽きることなく襲いかかってきて我々自身を混乱させる。時には精神的にひどく落ち込んでしまい、絶望の果て死を選ばんとすることさえある。このような時には特に考える主体我を忘れてしまい、考えられた客体我を自分のすべてと思い込んでしまう。
考えられ、写真のごとく写され、絵のごとく描かれた自分が、いくらみにくくゆがみ、あるいは病んでいても、それを考え、写し、描く自分は尊敬に満ちた命ある限り、病むことも老いることもなくあることを忘れてはならない。それは静かに祈る心の中にある。
<参考引用掲載> 西国四十九薬師巡礼 朱鷺書房