西国観音巡礼 <第9番 興福寺・南円堂> |
春の日は
南円堂に かがやきて
三笠の山に 晴るるうす雲
藤原鎌足から五代目の高麿が「藤原家がいついつまでも繁栄するためにはどうしたらいいのか」と弘法大師に教えを乞います。弘法大師は等身大、三目八臂の不空羂索観音像(ふくうけんじゃく)を与えて「この観音様を信仰するように」と教えます。高麿はこの観音様を持仏堂に安置して朝夕供養を続けていましたが、高麿はこの世を去り、その子供の冬嗣は、この観音様を一家で独占しないで一般の人達にも仏徳を及ぼそうと思いつき弘仁4年(813)氏寺の興福寺の西南に敷地を選び、白銀で一千体の小さな観音像を造って、これを深く地中の中に埋め、その上にお堂を建てて持仏堂の観音様を移して安置したのです。冬嗣がお堂建立に精進していた時に老翁が現れて何かと力添えをしてくれ、いよいよ完成という時に、その老翁は
「ふだらくや 南の峰に 堂たてて いまぞ栄えん 北の藤波」と詠んで「自分は春日明神である」と告げて消え去ったといいます。
南円堂の名はこの歌にちなんで名づけられたと言われています。
この710年が実質的な興福寺の創建年といえます。 中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られます。その後も、天皇や皇后、また藤原家によって堂塔が建てられ整備が進められました。
不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、 元来藤原氏の私寺である興福寺の造営は国家の手で進められるようになりました。
寺の周辺には子院と称する多くの付属寺院が建てられ 最盛期には百か院以上を数えましたが なかでも天禄元年(970)定昭の創立した一乗院と 寛治元年(1087)隆禅の創立した大乗院は皇族・摂関家の子弟が入寺する門跡寺院として栄えました。鎌倉室町時代には幕府は大和国に守護を置かず 興福寺がその任に当たり、文禄4年(1595)の検地では 春日社興福寺合体の知行として2万1千余石とされました。
興福寺を拠点とした運慶ら慶派仏師の手になる仏像もこの時期に数多く作られています。江戸時代の火災の時は時代背景の変化もあって大規模な復興はなされず、この時焼けた西金堂、講堂、南大門などはついに再建されずじまいになっています。
明治元年に出された神仏分離令は 全国に廃仏毀釈の嵐を巻き起こし 春日社と一体の信仰が行われていた興福寺はもろに打撃をこうむりました。子院はすべて廃止、寺領は没収され僧は春日社の神職となり、
境内は塀が取り払われ樹木が植えられて、春奈良公園の一部となってしまいました。
一時は廃寺同然となって、五重塔、三重塔さえ売りに出る始末でした。行き過ぎた廃仏政策が反省されだした明治14年(1881) ようやく興福寺の再興が許可され明治30年(1897)文化財保護法の前身である
「古社寺保存法」が公布されると、興福寺の諸堂塔も修理が行われ、 徐々に寺観が整備されて現代に至っています。
しかし、興福寺に塀が無く公園の中に寺院がある状態「信仰の動線」が欠落していると称される状態は、このとき残された傷跡です。
奈良市登大路町48 ☎0742-24-4920