「成仏」の仏の意味 |
「仏」とは梵語の略なり。
つぶさには没駄(ぶつだ)といい、翻じて覚者という。
覚と言っぱ、不眠を覚と名づけ、開敷(かいふ)を義となす。
また常明の故に、照了の故に、如実知見の故に。
一切の賢聖(けんじょう)、一切の凡夫におのおの分覚あり。
しかもいまだ究竟(くきょう)せず。
如来は両覚円満し洞達するが故に大覚という。
この覚もまた因縁所生にあらず、法然の所得なり。
(大日経開題 全集一)
成仏の”仏”とはブッダ(buddha)という梵語(サンスクリット)の略であって、「真理に目覚めた人(覚者)」と訳している。
悟るというのは居眠りをしているようにぼんやりとしているのではなくはっきりと自性清浄心(その性質がおのずから清らかな心)に目覚めて生きていることであり、蓮華の花が美しく開いているように、その大慈大悲の働きが四方に行きわたっている、という意味である。
また常にお日様のように、その霊的光明が光り輝いて法界(み仏の世界と現実の世界)を明るく照らし、照らし終わってあますところがない。そこでありのままに出来事の真実を見抜く知恵が円かに具わっている。
すべての賢い聖人やすべての凡夫にも、おのおの一分のさとりというものはある。しかし十分にきわめつくした十全のものでない。如来(悟りを成就した仏陀)は自覚覚他の(自らが悟っていて平安であり、人々をして悟りの安楽境に導く)救いの手立てが、円満に具わっているところのものである・・・と。
私自身が悟って”仏陀”となることも、因縁によって生ずるものでなく、法然に具わっていてすでにいただいていたものである・・・とは驚きという外ない。
だから、そのことに本当に目覚めて生きていけばよいという崇高な教えが真言密教の神髄なのである。
そこでお大師様の教えを”神通乗”(じんつうじょう 飛行機かロケットに乗って行くほど早くこの身このまま仏になる悟りに到達できる乗り物の教え)というのである。
引用掲載 弘法大師空海百話 佐伯泉澄 著者