自身仏にめざめよう |
それ此れの太虗(たいこ)に過ぎて広大なる者は我が心。
彼の法界に越えて独尊なる者は自仏なり。
仏刹微塵の数もその数量に譬(たと)うること能わず。
日月摩尼の光もその光明に喩うることを得ず。
修行を待たずして、清浄覚者より具し、
勤念(ごんねん)を仮らずして法然の薩捶おのずから得たり。
平城天皇潅頂文 全集二
私の心の本当の姿はこの大虚空よりもさらに広大で限りがない。
み仏たちの万徳円満なお浄土の素晴らしさよりももっと有難く尊いのは、実は自分自身の奥におわしますみ仏である。
み仏の国々は無量無辺無数といっていいほど多いというけれども自分自身の広大さをたとえることができず、お日様お月様、摩尼宝珠の光り輝く光明も、自分自身の光明にたとえることができないのである。
修行など全くしなくても清らかな悟りをもとからそなえていて欠けるところがなくつとめ励むことを要せずして、ありのままの真の仏子であることをすでに得ているのである。
こういう事をいうと「ああいい事を聞いた。それなら修行などいらないのだ。遊んで寝て暮らそう」と早合点してしまうのは誤解というものである。清らかな悟りはすでにいただいているのであり、私が仏子金剛薩捶(永遠の生命に生きる菩提心堅固な人)であるという自覚に真に到達するための修行が必要なのである。
引用掲載 弘法大師空海百話 佐伯泉澄 著者