いつでも正法の世である |
人法法爾なり。
興廃いずれの時ぞ。
機根絶々たり。
正像なんぞ別(わか)たん。
梵網経開題 全集一
たくさんのみ仏の集会せられた浄土(曼荼羅)の境界では、中心の法身大日如来のみ仏を始めたくさんのみ仏たちも、そのみ仏たちの説き示された法(真理・道理)も三世に法爾(永遠につきることのない)の存在である。ある時には盛んになったり、ある時にはすたれて衰えてしまったりというような時間的な制約をこえた常住な世界である。教えを信受し修行する人々の機根(能力)に、上根・中根・下根などの差別をみる立場があるがこの境界はそれをも越えて、自分の好みによって生き方に相違がありながら全く本質的に平等な世界である。
お釈迦様ご入滅後、正法の保たれる期間、像法といって教法は伝わりそれによって修行する者はあっても、悟りを得る期間・・・というような区別は浅はかな考えによってつけたものであって本来この境界にはそんな区別は存在しない。道のもとは始めもなく終わりもなく、過去現在未来(三世)にわたって不変のものであるからである。したがっていつでも誰でも、真心から修行すればそれぞれの悟りが得られるというのが正しい本当の教えである・・・と。
仏教の中には末法思想という考え方があって、お釈迦様ご入滅後の仏法を、正法・像法・末法の三時期にわけ
正法・・・教えと修行と悟りの三つがそなわっている時期。
像法・・・教えと修行の二つはあるが、悟りを得るものがない時期。
末法・・・教えのみあって、行も証もない時期。
上の三つとし、その期間については正法500年(あるいは1000年)像法1000年(あるいは500年)末法1万年といわれている。そして一説に平安末期の永承七年(1052)から末法に入るとして、世は末であり乱世になるといって、恵心僧都(942~1017)法然上人(1133~1212)あるいは日蓮上人(1222~82)は念仏や唱題によって得脱(その苦しみからのがれる事)を得ようとされたのである。
ところがお大師様は(774~835)はみ仏も教法も実は法爾として永遠に存在する。正法だの像法だのとわけないのが真言密教の特色であるとすでに断ぜられていた。
お釈迦様は縁起(因縁の道理)の法を説いて、「このこと(縁起の法)は如来がこの世に出ようと出まいとさだまっていることである。」と述べられているように、法は永遠不変の存在である。またそのように法身大日如来は、実は法界に遍満する永遠の存在である。
だから末法の世だからといって嘆いたり悲観したり、あるいはお釈迦様の教えもお大師様の教えも、もはやその功はない・・・などというのは浅い考え方であるといわなければならない。末法というものはない・・・自分の努力次第で成果は正当にでてくる・・・という。この人生を明るく楽しんで生きる人生観が、お大師様の教えの本当の立場である。
引用掲載 弘法大師空海百話 佐伯泉澄 著者