【江口の里】 江口の君堂 寂光寺 |
淀川と神崎川、安威川にはさまれた東淀川区は“川の町”です。
その北東の南江口一帯は古く「江口の里」と呼ばれていました。江口は淀川が神崎川へ入る分流点で、地名は”江(川)”の”口”に由来します。
神崎川は旧名を「見国川」といい、もともとは安威川の下流に当たる水路でした。延暦4年(785)古代から水上交通の拠点だった淀川の下流に土砂が堆積してその役割が果たせなくなったため、淀川とこの見国川を結ぶ新川の開削が行なわれ、以後、”江口”が都と山陽、西海、南海道方面への交通の要所としての位置を占めるようになりました。
特に平安時代以降、熊野、高野山や四天王寺、住吉社への参詣が盛んになり、また貴族や権門寺社などの荘園が発展して人と物質の交流・輸送が頻繁になってくると、往来の途中、江口に宿泊する人が急増し、その宿泊客を対象として多くの遊女が集まり神崎(現在尼崎)などと並んで”遊里”としても繁栄し「天下第一の楽地なり」と言われるほど賑わいました。江口の遊女は公家たちを相手としたので教養が深く、和歌や歌舞音曲などに秀でた者も多かったそうです。
《江口の君堂 寂光寺》
寺伝によると、江口の君は平資盛の娘・妙之前で、平家没落のあと江口に住む乳母をたよってこの地を訪れ、遊女に身を落としました。
仁安二年(1157)の秋の夕暮れ、四天王寺への参詣の途中、この江口の里を通りかかった西行法師が、折悪しく雨にあって一軒の伏屋に立ち寄って仮の宿を頼んだところ、出てきた妙(遊女江口の君)に断られます。そこで仕方なく立ち去りかけた西行が「世の中を厭ふまでこそ難からめ 仮の宿を惜しむ君かな」と詠むと、妙は「世をいとふ人とし聞けば仮の宿に 心を止むなと思ふばかりぞ」と歌を返した。そしてこの歌が縁となって、二人は長雨の一夜を語り明かしたと言われます。 それからまもなくして、妙は発心して二十五歳の若さにして黒髪をそり落として仏門に入り、尼僧(光相比丘尼)となりました。彼女が庵を結んだのがこの寂光寺の始まりと言われ、境内に西行塚、君塚、歌塚などがあります。
ちなみに、この西行と妙之前の出会いを題材にしたのが能の「江口」です。
参考引用掲載 大阪を歩く
写真 ro-shin